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【第9回JASRAC音楽文化賞受賞】小林克也さん「音楽とリスナーの素敵な出会いを演出したい」

ラジオ少年~自身の原点

子どもの頃から短波放送でアメリカのラジオを"バカ聴き"していたから、自分の番組でもアメリカのスタイルを取り入れていました。例えば曲の紹介方法。イントロでトークを入れて紹介するのですが、日本のラジオ番組はほとんどが「○年発売の○○です」などとありきたりの紹介になるんです。でもアメリカではそんなことはやらない。ダサいことじゃないですか。アメリカだと、何の曲がかかるか分からない、何だろう?と期待を持たせて、そこにエンターテインメントがあるわけです。その曲が生きるエピソードやジョークを交えてその音楽との出会いに期待を膨らませてもらう。そうすることで、より多くのリスナーに届き、内容に耳を澄ませてもらえるんじゃないかと。

例えばパンクが出てきたときに、ある価値観を壊すようなコントを曲紹介前に入れることで、曲の勢いに導いたり。リスナーに音楽の魅力を届けるためにいろいろ工夫しました。ラジオはリスナーと一対一。その方がリスナーに届くから。このことは今でも基本にありますね。リスナーにより楽しんでもらうために、日本では前例のないことをやってきたと思います。

1976年にカーターが大統領になったときに、出身地の南部がすごく盛り上がったんですよ。その年に、1年間アメリカ南部へ取材に行くというラジオ番組の企画がありました。例えばナッシュビルには100局くらい放送局があって、取材を申し込むと100%OKしてくれる。そうすると次はここへ行けと向こうから教えてくれるの。この体験は大きかったですね。

子どもの頃のラジオ体験とこのアメリカでの体験で、DJが個々の色を前面に出していけばいくほどリスナーの心に刺さっていくことがわかってきたんです。特に音楽は個人の嗜好があるから、そこに刺さるには個人的な感覚を全開にする方がおもしろくなってリスナーに響く。だから曲の選択や紹介方法を自分で工夫するんですよ。日本人は「洋楽の番組はこうあるべき」とか、「日本人の洋楽の聴き方はこう」とか、形式が優先されたりする。絶対こうでないといけないというのはないんですけど、そういうことがよくわかって、それからの仕事に繋がりましたね。

洋楽の伝道師として~『ベストヒットUSA』の誕生

60年代からビートルズがビデオクリップを作ったり、徐々にアーティストの間でビデオを作ることが広まっていたんですが、このときはまだフィルムの時代。70年代に入ると『ナウ・エクスプロージョン』というアメリカの番組フィルムのショーが始まって、その番組を東京12チャンネル(現テレビ東京)が購入して日本でも放送したんです。そのとき英語ができるということで僕のところにDJの依頼がきたんですね。それがはじめ。

その後、ビデオの時代になってアメリカでMTVがスタートするのですが、『ベストヒットUSA』の企画はMTVの前に既にできていたんです。小林は英語ができるからアーティストとのインタビューもできるだろうと、依頼がきましたが、僕は断ったんです。テレビの収録は時間がかかるんですよ。30分の番組収録でも5時間くらい前に現場に入るんです。僕はその頃ラジオやCMの仕事でスケジュールがいっぱいで、テレビは一日潰れてしまうので断るよう、マネージャーをしていた妻に言ったんですよね。でも断っていなかった。話を聞くともうスタートしているんですよ。オープニングの絵もすでに撮っていたし、準備が進んでいるわけです。じゃあわかった、と打ち合わせをしたんですよね。企画した側の読みとしては、これからはビデオを録画して自室で個人的に楽しむ時代になるというんで、そういう話を一番聞いていた妻から見ると、ラジオ畑の僕に合っているという感覚があったのかもしれませんね。

そうして始まったんだけれど、僕は前例のない番組だからどうなんだろうと懐疑的でした。音楽はすごくパーソナルなもので、受け手の好みはさまざまだから、3か月か、良くても6か月で終わるんじゃないかと思っていたんです。でもね、始まってみると番組で取り上げたアーティストのレコードの売り上げが翌日に3倍、モノによっては5倍になっているというんです。それでみんなついてきてくれているんだと実感しました。今考えると先見性があったというか、時代の波をつかんでいたんでしょうね。8年続いた番組が一旦終了しましたが、地方局で特番をしたり、CSでの放送もあって、現在は30分番組となって復活しています。

今の番組は、以前見ていてくれた世代の興味が湧くように、例えば長く活動しているアーティストをとりあげる『タイム・マシーン』や『スター・オブ・ザ・ウイーク』のコーナーで、そのアーティストの人間性や活躍した時代背景を掘り下げて話すようにしています。複数のインタビューから情報をコンパクトにまとめて、これまであまり知られていないようなエピソードを紹介しています。

流すビデオには日本語訳を必ず付けますが、これは番組オリジナルの訳です。歌詞をよく読んで本来の意味を考えたり、視聴者が字幕を追いかけるスピードを考慮しています。映画の字幕と同じですね。

インタビューではアーティストのパーソナリティをつかむ

歌詞を翻訳するだけではなく、アーティストのインタビューにも神経を使っています。作り手のパーソナリティをつかめれば、リスナーの関心を高める情報として貴重です。相手のことをよく知るには、ただ質問の羅列を準備するだけではだめで、話をする中で派生してくる疑問などをその場で投げかけていく。これが基本です。英会話はね、やっぱり自分で勉強しないとだめですね。映画を見たり、あとは歌詞の聴き取り。これが一番難しいから。

グループだと、よく話してくれる人が1人はいるので楽なのですが、話していると内情がよく分かる場合があります。例えばA-ha。彼らは『テイク・オン・ミー』が大ヒットしたんだけれど、それまで結構苦労していたんですよね。ボーカルのモートンはいい意味でそれを感じさせないような能天気なところがあって、それを自分の手柄のように話すんです。あとの2人はそれを嫌うんだけど気にしない。話していて2人の目を見ると、これは明日にでも解散してしまうかのような危険な目をしているのが分かるんです(笑)。

80年代に全盛だった洋楽も、その後CDの売り上げが下降線を辿ります。ストリーミングの影響があり、もう昔のチャートじゃないですね。『ベストヒット』は実はラジオチャートなんですよ。ラジオチャートは独特で、売り上げを反映した昔と同じような傾向が出ていますね。

現在のミュージックシーン

現在は、生放送を含めて6本の番組をやっているんですが、洋楽の番組は2つだけで、洋邦隔てなくやっています。日本のチャートは韓国やアメリカなんかに比べて動き方がめちゃくちゃなんですよね。アメリカなんかだと音楽は広く消費されて、落ちてその後次が来るけれど、日本はそうじゃないんですよ。どういうことかというと、流行のアニメなどは、まずアニメファンだけで盛り上がればいい、そのファンが中心に盛り上がれば、後は引きずられて音楽も売れるという考え。発売してずっと経ってからチャートに戻ってきたりする。年末の紅白の影響もありますね。

まだまだやりたいことが

昔ラジオでやった『スネークマンショー』を映像でもやりたいんだよねってことで、試作を作ったりしたんです。ラジオだから想像が膨らむということもあるんだけど、映像でもしっかり想像させられるんです。結構作りましたよ。ただ、今テレビは制作費が縮小されているし、コンプライアンスの問題もある。ネットの動画配信だったらできるかもしれないですね。

これからやれることは限られているけれど、やりたいことやアイデアはまだいろいろと浮かんでくるんです。これからもこのスタイルで魅力ある音楽とリスナーの出会いを演出していきたいですね。

Profile
1941年、広島県福山市生まれ。慶應義塾大学1年次に通訳案内士の国家試験に合格。在学中にコンサートの司会業も始める。1970年、ラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)でDJとしてデビュー。1976年、ラジオ大阪で始めた音楽番組『スネークマンショー』が話題になり、番組で演じたキャラクターを生かしたレコードアルバム(スネークマンショーシリーズ)を計16枚、また1982年に結成した『小林克也&ザ・ナンバーワン・バンド」のアルバムを計12枚発表する。1981年に開始したテレビ朝日『ベストヒットUSA』は、BS朝日、エフエムナックファイブ(NACK5)で復活し、現在も続く。1993年開始のNACK5『ファンキーフライデー』は毎週 9時間の生放送で同様に長寿番組に。現在、全日空機内放送番組を含め計7局でDJを務める。アーティストへのアルバムにゲスト参加するほか、俳優としても多数の映画、テレビドラマに出演している。