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【第9回JASRAC音楽文化賞受賞】外山喜雄さん・恵子さん「魂を解放させるジャズ。夫婦で伝え続けて」

発祥の地で知ったジャズの核心

喜雄 二人がまだ結婚したてで20代半ばの頃、それぞれ職を捨てて一緒に米国ニューオーリンズに渡りました。ジャズ発祥の地で、ジャズの原点をこの目で確かめたいばかりに。

着いてから3、4日目、いきなりジャズの洗礼を受けました。それはお葬式。街角に集まったブラスバンドを見かけ、賛美歌を奏でる彼らについていくと教会へ。安置された亡きがらを前に牧師さんが祈り始めると、それに合わせて黒人の参列者がハミングしたり、ハモり始めたり。ハモンドオルガンが流れると手拍子が重なり始め、太い声の合唱がホールを満たすんです。くぎ付けでした。

恵子 ひつぎは教会の鐘の音と共に霊きゅう車に移され、それを囲むバンドと人々が住宅街を練り歩くんです。そうすると街の人々が家から飛び出して集まってくるんですよ。お墓に着く頃にはもう200~300人の人だかり。埋葬が終わるとドン、ドン、ドンとビートの強いリズムにトランペットがバラッパッパと呼応して。すると人々が踊り始めるんです一斉に。泣いていた人も杖や傘を振り回しながら銘々自由に。

喜雄 これがジャズだなあって。黒人の人々は差別されてきたし、いろいろな悲しみや苦しみがある。それは人間誰しもそうですよね。それが天に召されるってことは、魂の解放という点で祝福することなんだと。それがジャズのスイング感につながることを目の当たりにしました。

ジャズが生まれた100年前、ちょうどスペインかぜがまん延していた。世界が閉塞感を感じていたとき、ジャズが成熟したんです。大恐慌の時はスイングジャズが爆発しました。社会の浮き沈みの中でジャズが洗練されていきます。その原点をニューオーリンズで体感しました。

若き日の二人

渡米を決心させたジャズへの憧れ

喜雄 私たちが最初にニューオーリンズで暮らしたのは68年から73年にかけての5年間でした。その数年前、二人が学生のときにジャズブームが到来したんです。ジャズを題材にした映画がすべて大ヒット。64年前後はニューオーリンズのトラディショナルなバンドの来日ラッシュで、ジャズに対する興味が増していきました。当時の若い人たちはマイルス・デイビスやソニー・ロリンズなどのモダンジャズに関心を寄せていましたが、私たちはなぜかジャズのルーツに興味があったのです。とてもロマンチックな感じがしたんですね。小さな町で起こった音楽が世界中に広まった。そこがどんな町なのか、海外旅行でさえ稀だった当時、渡米を決心させたのはひとえにそのジャズへの憧れでした。

学び舎だった「プリザベーション・ホール」

喜雄 住居は著名な伝統ジャズのスポット「プリザベーション・ホール」の裏のアパート。クレオール料理店の2階でした。夜になるとホールから演奏が聞こえてきて、誰が演奏しているかわかるんです。

恵子 そのホールは本当に私たちの学校でした。アラン・ジャッフェというマネージャーは、ニューオーリンズ・ジャズをすごく愛していて、私たちみたいに海外から集まってきたジャズ愛好家の若者たちからはお金を取らないんです。

喜雄 しかもホールのカギを預けてくれていたので、昼間は仲間と自由にセッションできました。外国から来ている'ジャズ学生'たちには寛容で心の広い人でした。

恵子 5年間向こうで生活しながら現地の音楽を体験して分かったことは、私たちが敬愛するルイ・アームストロングが、ニューオーリンズの音楽を「ジャズ」というアメリカの文化として完成させて、世界中に通じる音楽にしたということです。サッチモ(ルイの愛称)の音楽と人間の素晴らしさに憧れ、それをずっと今まで持ち続けているんですね。

「銃に変えて楽器を!」慈善活動を開始

喜雄 帰国後、アメリカのルイ・アームストロング・ファウンデーションから日本支部をつくらないかという話がありました。何をやろうかと考えたときに、サッチモが世界を旅する映画の中で、アフリカの学校にトランペットを寄付する場面が浮かびました。そのときに子どもの目が光り、それがすごく印象に残っていて、いつかそういうのをやりたいなと考えていたことを思い出したんです。

恵子 若い頃にアメリカにお世話になった、その恩返しをどういう形でできるかと常々思っていました。楽器を贈ることはとてもいい考えだと思って始めたんですね。ニューオーリンズはジャズが生まれた故郷というのに、学校には満足に楽器がない。裏は貧困と銃と麻薬の街なんです。最初は大国のアメリカに中古楽器を送って喜ばれるのかしらと心配したんですが、ニューオーリンズの人に聞いたら大喜び。結局、20年くらい続きましたね。

喜雄 「銃に代えて楽器を」と。これまで850本ですね。知り合いのつてや全国から賛同してくれる方々の繋がり、協力があって流れができていったんです。

恵子 温かい人たちの心だけでこんな活動ができた。それがその後の気仙沼とニューオーリンズの子どもたちとの交流にまで繋がっていったのです。

日米の子どもたちの橋渡し役に

喜雄 2005年のハリケーン被害でも被災地のニューオーリンズに義援金と楽器を贈りました。その後東日本大震災が起こった際に、向こうからもし津波で楽器をなくした子がいたらこれまでの恩返しをしたいという話がありました。そのときに、贈ってくれたニューオーリンズと気仙沼の子どもたちを双方で対面させたいなと思ったんです。

恵子 「本当に行かせてあげたいなあ」と思ったんですが、実現できたというのは今考えても不思議ですね。

喜雄 震災の翌年に縁のあった気仙沼ジュニアジャズオーケストラ「スウィングドルフィンズ」(第3回JASRAC音楽文化賞受賞)を向こうに連れて行こうと考えましたが、まだ準備が整わなかった。それならば逆にニューオーリンズの子どもたちをこちらに呼ぼうと思ったのです。彼らは貧乏で恵まれない子が多いから、日本に連れてきてあげたいって思ったんですね。実現までは苦労しましたが、国際交流基金など各方面のさまざまな方々が協力してくれたおかげでうまくいきました。翌2013年、今度はドルフィンズが向こうに行って交流しました。うれしかったですね。

サッチモの悪戯

恵子 本当にありがたいのよね。なんて言うの?天使がいるんですよ。サッチモから派遣された天使が。私たちは「天使」と呼んでいます。サッチモの天使が本当に奇跡を起こしてくれている。

喜雄 64年にサッチモが来日したとき、彼のコンサートを京都に見に行って、楽屋にもぐりこんじゃったことがあるんです。

恵子 もう図々しいんですよ。ものすごく、こちらが恥ずかしくなるような。

喜雄 そこでサッチモのトランペットを強引に吹かせてもらっちゃって。そういうことがあって、楽器を贈ってるのを天国のサッチモが見て「何だ、俺の故郷に楽器を贈ってる変な野郎、俺のラッパを勝手に吹いたやつじゃないか」って(笑)。「いいことしているから、ちょっと悪戯してやろうか」みたいな。そんな感じですよ。

恵子 「サッチモの悪戯」とも言ってるんですよね。たびたび奇跡が起こると。

喜雄 私たちは東京ディズニーランドで23年間バンド演奏をやってきましたが、ディズニーランドはアメリカのエンターテインメントの極致なんです。そこでの体験で、違う視点でサッチモを見ることができ、よりサッチモへの理解が深まった気がします。

恵子 それは大きいですね。私たちがニューオーリンズに行った経験だけでなく、ディズニーランドで23年間工夫しながらお客様を喜ばせることができたのも貴重な体験でしたね。ジャズを理解するのにすごく役立ちました。

喜雄 これも「サッチモの悪戯」かもしれないね。

Profile
喜雄氏は1944年、東京都港区生まれ。恵子氏は1942年、韓国ソウル生まれ。早稲田大学の「ニューオルリンズジャズクラブ」で出会う。ルイ・アームストロングのジャズに憧れ、結婚後1967年、移民船で米国ニューオーリンズに夫婦で渡り、現地のミュージシャンと演奏、交流の場を広げる。1975年帰国後、外山喜雄とデキシー・セインツを結成、喜雄氏はトランペットと歌を、恵子氏はバンジョーとピアノを担当、1983年の東京ディズニーランドの開園から2006年まで人気バンドとして演奏する。1994年にルイ・アームストロングファウンデーション日本支部を設立(1998年から「日本ルイ・アームストロング協会」に改名)。「銃に代えて楽器を」をスローガンに、ニューオーリンズ市の子どもたちに楽器をプレゼントする運動に取り組み、2005年に外務大臣表彰を受ける。2018年「文部科学大臣表彰」、同年米国で「スピリット・オブ・サッチモ賞生涯功労賞」受賞、2012年「国家戦略大臣感謝状」、2019年「ミュージック・ペンクラブ音楽賞」を夫婦連名で受賞した。