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【第1回JASRAC音楽文化賞受賞】「アオギリにたくして」制作委員会 統括プロデューサー 中村里美さん「生き方に迷ったとき、音楽に再開しました」

映画「アオギリにたくして」誕生まで

中村里美さん

JASRAC音楽文化賞をいただいた映画「アオギリにたくして」は、広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下で、被爆体験を語り続けた沼田鈴子さんをモデルに描いた映画です。2013年夏に劇場公開しました。その後2016年にアメリカでも上映され、現在も全国から依頼を受けて上映を続けています。

沼田さんは2011年に亡くなられましたが、生前沼田さんから送っていただいた被爆アオギリ3世の小さな苗を見ながら、口ずさんで作ったのが、この映画の主題歌にもなった「アオギリにたくして」です。そこから映画の制作に発展していきました。

ヒロシマ・ナガサキを歌と朗読で伝えるライブ活動を続ける中、一緒に活動していたギタリストで、この映画の音楽監督である伊藤茂利さんから「一人の人生を深く掘り下げて描くには映画がいいんじゃないか」と提案を受けました。いろいろ大変でしたが沼田さんに見守られていたと思うくらい、たくさんの人との出会いがあって完成させることができました。こんな小さな映画を音楽文化賞に選んでいただいて、とても感謝しています。

原点となる体験

21歳の時に、たまたま新聞の記事で、アメリカで子どもたちに平和啓発を行う若者ボランティアの募集を見つけ、応募したのがきっかけでした。若かったし、引っ込み思案の自分を変えたい、何かやりたい、でも何をしたらいいかわからない、そんなときでした。

アラスカ・オレゴン・ニューヨークなどを巡り、日本文化の紹介と共に原爆映画の上映や、被爆者の体験を伝える活動だったのですが、行く前に1カ月間広島に滞在して、被爆者の方々に取材をしました。知れば知るほど、体験のない自分が何を伝えられるんだろうと、一度挫折しかけました。でも、そんなとき沼田さんを始め、出会った被爆者の方々の励ましがありました。何の肩書きもない小さな私だからこそできることもある。この方たちの思いを伝えたいと思ったことが大事だと、そう思い渡米を決めました。

原爆を落とされた国の私が、落とした国に行って伝えることの難しさを日々感じる毎日。でも子どもたちは受け止めてくれて。その体験が、平和の尊さや、国際間のコミュニケーションの大切さを感じるきっかけになりました。アメリカでの体験がなかったらその後のいろいろなことは生まれてこなかった。あれが私の原点ですね。

アメリカでの活動時代

創作について

小さかった頃を振り返ると、音楽が大好きでした。学校で習う音楽以外でも、嬉しいこと、悲しいこと、生きているうえで感じたことを自分で勝手に口ずさんだりしていました。そんな風に、小さな頃は勝手に作って歌っていたイメージがあります。でもいつからか歌を歌わなくなってしまった。父の方針で、テレビ・ラジオがない環境で育ち、さらに成長していく中でいろんなことを我慢したり、抑えていくことを覚えて、私の中では音楽も止まってしまいました。ところが、自分がこれからどうやって生きていこうかと、行き詰まって迷っていたときに再び音楽に出会ったのです。私にとって湧き上がる思いを表現する方法が音楽を作ることでした。音楽には本当に救われました。

自然に音がやってきて、歌詞が生まれ、伝えたい思いをメロディーに乗せていきました。私の場合すごく単純なメロディーをハミングで紡ぎます。作曲を手がけていない方にも、ぜひ試していただきたいです。

ミューズの里を設立

お世話になった被爆者の方々が年々亡くなっていく中で、命の大切さ、平和の尊さを伝えていかないといけないという思いで、2008年8月6日に株式会社ミューズの里を立ち上げました。そして、歌と語りでヒロシマ・ナガサキを伝える「いのちの音色」と名付けたライブを伊藤さんと共にスタートさせました。被爆体験の朗読と書き溜めていた歌を歌うイベントですが、3分から5分の凝縮した時間の中で、音楽の力はその場を一瞬で変えてしまうんです。何か思いを伝えるときに言葉ではなく、表現手段として詞やメロディーで伝えたいという感情があったのかもしれませんね。そこから映画制作へとつながっていったのです。

3作目の映画「いのちの音色」を制作中

2017年に公開した2作目の映画「かけはし」は、2001年にJR新大久保駅で起きた事故を取り上げた2部構成のドキュメンタリー映画です。ホームから転落した人を助けようと、日本人カメラマンの関根史郎さんと韓国人留学生だったイ スヒョン(李秀賢)さんが線路に飛び降り救助に当たりましたが、3人共に帰らぬ人となりました。これは事故の後スヒョンさんのご両親に取材して作ったドキュメンタリー映画で、国際交流の絆をテーマにしています。私はこの映画でも主題歌を作り、歌いました。

現在、「アオギリにたくして」のモデルとなった被爆者の沼田鈴子さんがアオギリに託した想いと共に、ライブ活動を通じて全国行脚する中で出会った2世・3世のアオギリの撮影をしながら、さまざまな地域で希望と平和の種をまく人々の姿を追ったドキュメンタリー映画「いのちの音色」を制作しています。

「いのちの音色」ライブ活動

これから

これまで必死に駆け抜けてきたので、コロナ禍で歌うことができなくなり、はたと「なんで自分は歌っているんだろう」と感じて驚いたことがありました。少し一生懸命になりすぎていたのかな。でもそのときにあらためて、自分は歌に救われていると思いました。自分が作った歌でも、何度か歌ううちに解釈が変わってくる。歌い続けていくことが、どんなに苦しくても志を失わずに生きていく勇気や希望になっています。

「いのちの音色」ライブはこれからもライフワークとして続けていきたいです。沼田さんと「1,000回を目標に頑張ります」と約束したので。今253回目なので、生きているうちに到達できるかわかりませんが(笑)。でも大切なのは何回やったかではなく、一つひとつに思いを込めてやり続けることだと思っています。

中村里美さんProfile
1986年に単身渡米し、約1年間にわたり学校・教会280カ所で原爆映画を上映し、被爆者のメッセージを伝える草の根ボランティアに参加帰国後、異文化コミュニケーション誌の編集長を経て、音楽・映画・出版などを通じて国際平和に貢献する作品づくりを目指して株式会社ミューズの里を設立。主題歌・挿入歌の作詞・作曲を手がけた初プロデュース映画「アオギリにたくして」で2014年、JASRAC音楽文化賞受賞。


作り手と受け手のコミュニケーションに希望をたくして

映画「アオギリにたくして」制作委員会
音楽監督 伊藤茂利さん


中村さんとの初公演は2010年の広島フェニックスホールでした。「アオギリにたくして」のモデル、沼田鈴子さんの87歳の誕生日に招かれてそこで演奏したのが最初です。そこから映画制作に発展していきましたが、「アオギリにたくして」は、私にとっても初めての映画の仕事でした。背伸びしても仕方ないと考え、俳優さんたちの演技やセリフ、被爆された方々の気持ちにどれだけ寄り添うことができるかと考えていました。もともとジャズ・ミュージシャンですから。即興演奏を主体とする演奏では、自分の目の前の状況や気持ちと向き合って、今この時にどうフィットした音楽を届けられるかに心を砕いています。日常でも、自分のスキルや経験値を超えた部分で何ができるかを問いながらアンテナを伸ばしたりしています。そういう部分が役に立ったかもしれません。 商業的なものではなく、地道な活動を取り上げるというJASRAC音楽文化賞の趣旨を聞き、この映画を選んでいただいて本当に嬉しかったですね。

中村さんは子どもの頃から音楽をハミングで作ってきた人。楽典の知識などを背景とするのではなく、自然体で音楽に親しみ、取り組んでいる人です。若い頃のアメリカでの経験を通じて、平和への願いはずっと温めていたテーマだったと思います。


高校生の頃、ジャズ・ピアニストで作曲家のマル・ウォルドロンに自分のギター演奏を聴いてもらう機会がありました。電話越しでしたが、そのときの彼の対応や、演奏に熱中するティーン・エイジャーに向けた感想を振り返ると、後進に寄せる期待や、後進を育てようと努める"志"のようなものを思い出します。これは自分の出会ってきた名だたるミュージシャンやクリエーターに共通して感じられる姿勢で、自分もその役割を担っていると思っています。


このことは九州で知り合ったミニシアターの事業主の言葉にも重なります。彼が言うには、生きる望みを失った人がたまたま映画館に立ち寄ったとき、鑑賞後に、何だか新しい一歩を踏み出してみようかと思えるような気持ちになって外に出るかもしれない、それが映画の持つ力ではないか、という話でした。音楽を含めたすべてのアートにこの話が通じるのではないでしょうか。 作品に触れた人の印象は100人いたら100とおりですが、その中に作り手と受け手の大切なコミュニケーションが、また琴線に触れる交流があるのです。自分が演奏や創作に励む背景には、そういう希望や確信があります。