音楽評論家としてキャリアをスタートし、作詞家・訳詞家として数々の名曲を生み出してきた湯川れい子さん。湯川さんが手掛ける文章や楽曲は、時代を超えて今も輝き続けています。今年90歳を迎えた湯川さんに、これまでの歩みや創作活動について話を伺いました。
戦後、ジャズに魅せられ音楽評論家の道へ ――湯川さんは戦争を経験されています。その時代で音楽がどのような存在だったのか、また音楽に触れるきっかけなどを教えてください
海軍大佐だった父は尺八がとても上手で、母は三味線をたしなんでいました。18歳上の兄はフィリピンで戦死してしまうことになりますが、ピアノも弾けましたし、レコードや映画が好きでしたね。そういう環境でしたから、幼少期から音楽に親しんでいました。戦争が本格化するにつれて、アメリカ文化は"敵性"とされて、音楽も流れない、映画も上映されなくなっていきます。私は山形の祖母の家に疎開して、小学校2年生から5年生まで過ごした後に、東京に戻りました。戦争が終わり、中学2、3年の頃には、クラスメイトたちと一緒にラジオでアメリカのポップスなども聴くようになっていきました。
4歳の頃の湯川さん(前列中央)(湯川さん提供) ――後に仕事にされるジャズの分野に興味を引かれたきっかけは何だったんでしょうか?
高校2年の終わり頃、女優になりたくて独立系のプロダクションに入ったんです。ある日、そこの女優さんに誘われて、昼間はダンスホールで夜はキャバレーになる店に行ったら、大学生の男の子にナンパされたの(笑)。その人がものすごく音楽に詳しい人で、私は生意気にも「まだ昼間なのにジャズなんて踊って、占領政策にうまくはめられて、日本はダメになるんじゃない?」なんて言ったら、その大学生は「何を言っているんだよ。ジャズはアメリカが生んだ唯一の芸術だよ」と言うんです。「君、ジャズのこと知らないね。本物を聴かせてあげる!」と連れて行かれたのが、有楽町駅前にあった「コンボ」という、モダンジャズを聴かせる喫茶店でした。そこで「これが今のジャズなんだ」と大音量で聴かされて、ソロのパートが始まると、店の客が「ベニー・ゴルソン!」「レッド・ガーランド!」なんて叫ぶのね。「うわー、すごい」と思って、一気にモダンジャズにのめり込みました。そのお店には渡辺貞夫さんや早稲田大学の学生だった大橋巨泉さんなどもいらしてました。
――そこから知識を深めて、音楽評論へと進んでいくわけですね
はい。その大学生の「ジャズは芸術だ」という言葉に感化されて、猛烈に勉強して「スイングジャーナル」というジャズ専門誌の読者論欄に文章を投稿したんです。400字詰め原稿用紙2枚くらいだったかしら。「ジャズはただ流行りで騒ぐ音楽ではなく、もっと社会の指針になるようなものだ」みたいなことを書いて、それが掲載されたの。するとたくさんの反響が来たらしく、ある日私に電報が来たんです。「一度お目にかかりたい。岩波洋三」と。当時スイングジャーナル編集部に所属していて、後に日本のジャズ評論を代表する存在になる岩波洋三先生です。お会いしたら、「君、本気で書いてみないか?」と言われて、本格的に"書く"ことが始まりました。1960年のことです。
音楽評論家のほか、ラジオDJとしても活躍(湯川さん提供) "推し活"70年「会いたい人には、会いに行く」 ――洋楽ロックやポップスとの出会いについて教えてください
1956年、私が20歳の時、その頃はモダンジャズも聴いていたし、アメリカのポップスもいろいろ聴いていました。その中で、エルヴィス・プレスリーの『ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel)』を初めて聴いたときの衝撃は今でも忘れません。「なんだろう、この人は。なんてすごいんだろう」と。エルヴィスは、アメリカの文化、黒人音楽、教会音楽、そしてアメリカ南部の景色までも背負っているような存在でした。その日からエルヴィスのファンになりました。
1971年にラスベガスで念願のエルヴィス・プレスリーと対面(湯川さん提供)
――湯川さんは多くのアーティストに会われていますが、エルヴィス・プレスリーにはなかなか会えなかったとか
はい。会うまで15年かかりました。アメリカ人でも、エルヴィスに会ってちゃんと話をできた人なんてほとんどいないんです。取材なんてありえない、そういうアーティストでした。マネージャーのトム・パーカーという人が実はアメリカへの不法入国者で、正式なパスポートを持っていなかったんですね。だから、エルヴィスが海外に行きたくても、仕事を組まれることは無かったの。
――エルヴィス・プレスリーの来日公演が実現してたらと考えてしまいますね
ええ。でも、日本ではエルヴィスを正当に評価できなかったかもしれません。1950年代のアメリカで彼がどれほどの革新を起こしたか、当時の日本はリアルタイムで知ることができなかったんです。1964年の東京オリンピックが開催されたころからやっとテレビや通信が発展し、初めて同じ時間軸で世界の音楽が入ってくる時代になった。そして、その年に日本デビューしたのがザ・ビートルズで、音楽に関して言えば、ビートルズ以降、日本は初めて世界と同時間になったんです。
――1966年のビートルズ来日時に、湯川さんは"唯一の独占インタビュー"をしています。当時は厳戒態勢で、会うだけでも不可能と言われていたのに、どうして実現できたのでしょうか?
もともと読売新聞社が、莫大なお金をかけてビートルズを呼んでいたんです。私は週刊読売の「ビートルズ来日特集号」の編集長を任されていました。でも、ビートルズ側は、極東ツアーの取材権をアメリカのタイムライフ社に売ってしまっていた。だから正式な取材は1回の記者会見だけ。それ以外は一切禁止。お金を払って呼んだ読売新聞が全く取材できないなんて理不尽じゃないですか。だから私は言ったんです。「何としても、彼らに会わせてください」と。プロモーターである協同企画(現・キョードー東京)の永島達司さんが尽力してくださって、日本武道館公演の関係者が巻いていた腕章を4つ確保してくれたんです。「ビートルズがこの腕章を欲しがっているから届けに行く」という名目を作ってくださいました。
――その名目でホテルに入れたんですね
そうです。そのおかげでホテルのフロアに通してもらえて、ノックすると、ちょうど食事を終えたポールが出てきたんです。そして私を見て「君は誰?何しているの?」と。慌てて「この腕章を持ってきました」と言ったら、ポールが喜んでくれた。そこで聞いたんです。「少し遊んで行ってもいい?」と。そしたらポールが「僕たち、退屈してたんだよ。いいよ、遊んでいきなよ」って。あれは本当に幸運でした。それから30分くらい、いろいろお喋りしました。後にポールと話したときも、「そのときの事を覚えているよ」と言ってくれました。
ビートルズ来日時の写真。リンゴ・スターと(湯川さん提供) ――お話を伺っていると、湯川さんはとても自然体ですよね。人と交流するときに大切にしている価値観はあるのでしょうか?
"同じ人間"だと思っていることかしら。どんなすごいアーティストだって、目と目を合わせて"そこに流れる何か"を感じれば、それでもう十分。そこに上下関係なんて無いし。「絶対に会えない」と言われても、私は「絶対なんてない」と思っていて、会いたい人には会いに行く。それだけです。いいなと思ったものに飛びついて、周りの評価がつく前に夢中になって、それで語ったり書いたりする。最近になって気が付いたんですけど、私は70年以上"推し活"をしてきたんです(笑)。
マイケル・ジャクソンとは12回ほど会って親交を深めた(湯川さん提供)
――"推し活"といえば、湯川さんがライナーノーツを手掛けたマイケル・ジャクソンの『スリラー(Thriller)』は世界一売れたアルバムとなりました
はい。1973年、ジャクソン5として来日したときに初めてマイケルに会いました。彼がまだ13歳の頃ですね。マイケルはその後ソロで活動しますが、日本では徐々に取り上げられなくなっていきます。『オフ・ザ・ウォール(Off The Wall)』という素晴らしいアルバムですら、音楽雑誌はまったく取り上げない。信じられないと思っていました。だから『スリラー』が完成して私がライナーノーツを書くことになったときは、「ああ、やっとマイケルについて書ける場ができた!!」と思ったんです。私は『スリラー』のライナーノーツにありったけの思いを込めて、「このアルバムは、ギネス記録を塗り替えるでしょう」と書いたのですが、本当にその通りになりました。
――『オフ・ザ・ウォール』や『スリラー』からマイケルは自作曲を発表するようになっていきます。湯川さんはマイケルの音楽性をどのように評価されていますか?
ソロになったばかりのマイケルは、魅力的なボーカリストではあっても、まだ作家という感じではなかったですね。『オフ・ザ・ウォール』からクインシー・ジョーンズがプロデューサーになって、マイケルの創作意欲が爆発した。その後の『スリラー』で、マイケルは完全に"自分の音楽"を作るようになった。スケールが大きいアーティストというのは、自分の気持ちだけを書いているわけじゃないんです。彼は、世界のこと、人種のこと、自然環境のこと、国のこと、人間そのもののこと...そういう"大きな視点"で物事を見ていたから、スケールの大きな曲を書けたんだと思います。
作詞家・訳詞家として著作権を意識 ――音楽評論家やラジオDJとして活躍していた湯川さんが、作詞家・訳詞家として活動するようになったきっかけなども教えてください
最初に作詞したのは1965年の『涙の太陽』です。日本で活動していたエミー・ジャクソンという歌の上手な女の子をデビューさせようという話になって、作曲家の中島安敏さんから英語詞をつけて欲しいと言われて書きました。私が知っていた英語を並べて、意味が通るようにしただけで。最初は買い取りのような形で2,000円の作詞料をもらったんです。それがいきなり68万枚もの大ヒットになりました。これは大変なことだと周りの人たちが言ってくれて、「著作権料として計算したら380万円くらいにはなるぞ」と。「ええっ?そんなお金、見たこともない」とびっくりしました。
――そこが"著作権"との出会いだったんですね
そうですね。最初は著作権のことは全く知らなかったんです。その後、再販かカバーの話があったときに、音楽出版社からも「こんな買い取りのままでは申し訳ない。きちんとした権利関係に戻しましょう」と言ってくださったんですね。それから、この曲の著作権者として使用料を受け取れるようになりました。少し年数が経ってからでしたけど。
1985年『恋におちて-Fall in Love-』を発表した頃(湯川さん提供)
――その後も、作詞家として『恋におちて -Fall in love-』がヒットし、JASRAC賞も受賞されています。何度も書き直されたとのことですが、どのあたりが難しかったのでしょうか?
普通はあんなに何度も書き直すことはないんでしょうね。よほど有名な作詞家の先生でも、そこまで直されることはないと思います。ただ『恋におちて』の場合は、ドラマの主題歌になるというのが途中で決まって。その段階で「セリフの邪魔になるから全部英語にしてほしい」と言われて、英語で書き換えていました。でもしばらくすると、「やっぱり日本語じゃないと、大きなヒットにはつながらないから日本語にして」と言われて。それで日本語詞を書いて渡したら、さらにしばらくして「実はドラマの内容が"不倫"なので、不倫が分かるような歌詞にしてほしい」と言われて、もう大変(笑)。夜中に、自宅向かいのマンションの灯りが一つずつ消えていくのを見ながら、「この時間に会えなくて、声が聞きたくてどうしようもない人もいるんだろうな」って、そういう想像をしながら書いた記憶があります。
――ダイヤルを回して手を止める表現が印象的な歌詞です。ダイヤル式の電話ってその時代を象徴するアイテムですね
実はあの頃は、家の電話もダイヤルからプッシュホンに変わり始めていた時期だったから、「"ダイヤル"はもう使わないほうがいい」と制作側から言われたんです。でも私は言ったの。「ダイヤルを回して、戻ってくる"間(ま)"が大事なんです。プッシュホンじゃ意味が変わるのよ」って。だって、ダイヤルを回して戻る、その間に"ためらい"が生まれるという情緒が、あの歌詞の核なんです。だから「ここは絶対残してください」とお願いしました。最後は制作側も理解してくれて、本当にギリギリのタイミングで"ダイヤル"が残ってくれたんです。言葉を変えていたら、あの歌が持っている空気が抜けてしまっていたと思います。あれは時代との巡り合わせも含めて、本当に幸運だったと思います。
──湯川さんは『美女と野獣』『アラジン』などのディズニー楽曲の訳詞も手がけています。作詞に比べて、訳詞の苦労はどんなところにありましたか?
ディズニーから依頼が来たときは、「時間があるし、やってもいいかな」くらいの軽い気持ちで引き受けました。やってみると、画面の「口の形に合わせる」「意味を変えない」「音の数も合わせる」という三重苦の仕事でした。たとえば主人公が "I Love You" と歌っているとします。英語だと3音なんです。ただ、日本語の"愛してる"は4音で入らない。じゃあ"好きよ"はどうかというと、口の形が違うんです。口の動きと字幕(歌詞)がズレると、どうしても使えません。
──ディズニー側から直しが入ることも?
もちろん。「口の形が合っていません」という指摘が一番多かったですね。画面に映っているキャラクターの動きが最優先だから、日本語をそれに合わせて変えるしかない。時間もかかるし、本当に大変でした。それでも、ディズニーが好きだからできたんだと思う。子どもたちがたくさん見るものだから「日本語のリズムで、ちゃんと気持ちよく聴こえるようにしたい」という気持ちでやりました。
クリエイターが安心して創作できる環境づくりのために ──湯川さんはJASRACの評議員議長や理事を10年以上務められました。当時の印象深い出来事を教えてください
著作権が自分や家族の生活、そして日本を守るものだということが分かってからは、JASRACの正会員として運営にも参加するようになりました。当時は、戦時加算義務の解消や著作権保護期間の延長、著作権法附則14条の廃止、私的録音録画補償金などいろんな議論がありましたね。私には難しい内容も多かったけれど、都倉俊一さんをはじめ、他の先生方も本当に熱心に動いてくださっていました。私が議長を務めていた評議員会では、時に議論が夜遅くまで及ぶこともあって、副議長の三枝成彰さんと一緒に乗り越えたことも印象深いですね。
──音楽クリエイターが、著作権管理団体の運営に関わる意義についてはどう考えてますか?
そこは人それぞれだと思います。私は評議員会の議長や理事という立場をやらせていただくことになったし、重大な議論の場面にも立ち会いました。でも、それは私がそういう巡り合わせだっただけです。音楽を作る人が、必ずしもJASRACの運営に関わる必要はありません。ただ、もし参加するなら「音楽を守るために何が必要か」「後輩たちが安心して創作できる環境とは何か」という視点があると良いとは思います。
──現在、生成AIが発展し、歌詞もメロディーもAIが作れる時代になりました。さまざまな議論がありますが、湯川さんはどのように捉えていますか?
私は音楽の専門学校の名誉学校長を務めていますけど、今の学生たちは普通にAIを使うんです。でも、作らせてみて、すぐに気づくのよ。「自分の感覚とは違う」「人間の"匂い"がしない」って。だから、AIで作られたものをそのまま出すんじゃなくて、みんな「このままじゃ面白くない」「ここに自分の感覚を足そう」という作業に入る。人間がそれを一番分かっているから、私は全く心配していません。むしろ、AIが発達するほど「人間にしか作れない味って何だろう」とみんなが考えるようになる。その意味でクリエイティビティーは失われないと思っています。
──"人間にしかできない"部分が注目される時代になってきたということですね
はい。匠の技とか、老舗の味とか、そういうものがAIにとって代わられるかと言ったら、絶対に無理でしょう。音楽も同じだと思います。AIを"材料"として使うことはあっても、"最後の味付け"は人間じゃないとできないはずですから。
日本のアーティストの海外進出を受けて ──昨年、藤井風さんのニューアルバム『Prema』のライナーノーツを手掛けています。藤井さんとの出会いからお話を聞かせてください
私は日課として、就寝前にその日の音楽情報や自分が聴きたいものをインターネットで探しているんです。ある日、風さんが17歳のときにピアノを弾いている動画を見つけて、「まあ、なんて手の綺麗な少年なんだろう」と思いました。それが風さんを見つけたきっかけです。その後、2020年12月22日に土星と木星が重なるという日がありました。占星術では「グレート・コンジャンクション」といって、200年続いた「大地の時代」から「風の時代」に変わるという節目の日で、夕方、自宅前の道路に天体望遠鏡を出して、空を見ていた時に「ああ、そういえば"風"という少年がいたな」と思い出したんです。それから風さんの活動を追うようになっていきました。
──日本のアーティストのアルバムにライナーノーツがつくのは珍しいですよね。どのような経緯から実現したのでしょうか?
2022年1月に新型コロナウイルスにかかり、約1カ月入院しました。退院する日の朝に、私の携帯に突然、風さんから「心配していました」とメールが送られてきて、とても驚きました。それからメールのやり取りをするようになって、何度かお会いする中で、風さんが全編英語詞のアルバム制作に取り組まれていることや、制作している楽曲ひとつひとつの意味などを伺っていました。それが結果的に、ライナーノーツとしてアルバムに付くことになりました。
──近年、藤井風さんも含め、日本のアーティストが海外で活躍する機会が増えています。これまで日本の音楽を世界に広めるべく活動を続けてきた湯川さんはどのように映っていますか?
1960年代から「この人ならアメリカで聴いてもらえるかもしれない」なんて思えるアーティストのレコードを、よくアメリカへ持って行っていたんですけど、反応はなかなか難しかったですね。アメリカでヒットした『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』のように、アメリカのDJが面白がってかけてくれる、そんな偶然がないとなかなかオンエアされませんでした。長い時間を掛けて、日本の食文化やアニメが外国の人々に浸透していく中で、日本の音楽がようやく外国に受け入れられるようになったんだと思っています。
──湯川さんは環境問題や平和活動などにも取り組まれてきました。現在、取り組まれている活動はありますか?
いつも特別な活動はしていません。それに90歳って結構大変なのよ(笑)。自分があとどれだけ元気に歩けるか、仕事ができるか、それは誰にも分からないけど、もし日本が戦争をしそうになったら、そのときは国会の前に立つかもしれないわね。ハンガー・ストライキだってやると思う。戦争はね、絶対に絶対にやってはだめ。本当に!
──最後に、未来のクリエイター・アーティストに向けて、一言メッセージをお願いします
どんなにAIが発達しても、音楽には人間のテイストが必要で、そこには人間にしか作れない"力"がある。素晴らしいことですよね。私だって毎日、音楽から力をもらって生きています。お料理も材料自体は世の中にあるもので限られているけれど、人間はいくらでも新しい料理を考えるでしょ。それと同じで、新しい言葉やメロディーは生まれ続けますよ。音楽はなくならない、"永遠"だと思っています。
湯川れい子さんProfile
1936年1月22日、東京都目黒生まれ。1960年にジャズ専門誌「スイングジャーナル」への投稿が認められ、音楽評論家としての活動を開始。「全米TOP40」をはじめとするラジオのDJなども務める。エルヴィス・プレスリーやザ・ビートルズを日本に広めるなど、独自の視点によるポップスの評論・解説を通じて、国内外の音楽シーンを紹介し続けている。作詞家として『涙の太陽』『ランナウェイ』『センチメンタル・ジャーニー』『六本木心中』『あゝ無情』『恋におちて』などの作詞のほか、ディズニー映画『美女と野獣』『アラジン』『ポカホンタス』『ターザン』などの日本語訳詞も手掛ける。日本音楽著作権協会(JASRAC)の評議員議長・理事、日本作詞家協会の会長などの要職も歴任。主な著書に『女ですもの泣きはしない』(角川書店)、『時代のカナリア』(集英社)、『私に起きた奇跡』(ビジネス社)など。
(インタビュー日 2026年2月20日)