ありがとうございます。これまで「明子さんの想い」を伝えるために、小さな活動を続けてきました。音楽文化賞と聞いてきっと明子さんも驚かれていると思います。
――HOPEプロジェクトを立ち上げたきっかけについて教えてください
もともと広島に住む外国籍の方々の日本語教育に携わっていたんです。その後法人化して主に外国人の子どもたちへの日本語教育と日本社会への適応指導、地域内の異文化交流を目的とした活動を始めました。
――ピアノの所有者であり、原爆で亡くなった河本明子さんのピアノを譲り受けるわけですが、もともと住まいが近所だったとか
そうなんです。もう40年以上も前でしょうか。当時の私の住まいが広島市の三滝で、河本家とは3、4軒離れたくらい。明子さんのお母さんのことを私はおばあちゃんと呼ばせていただいていて、ご夫妻で暮らしていました。すごくモダンで素敵なおばあちゃんだったんです。市内からたまたま同じバスで何回か一緒になって、声をかけていただきました。「あなたも三滝なの?お茶するからいらっしゃい」ってお電話をいただいてお付き合いが始まったんです。
――当時から部屋にはピアノが?
はい。お宅にお邪魔したときに私の娘たちが「このピアノおかしいね、鳴らない音があるよ」などと言ったりしていました。でもそのときは明子さんの話はほとんど聞いていないんです。「私の娘はあなたと同じ学校に通っていたのよ」という話くらいで。今考えると、話せないほどつらい出来事だったんだと思います。愛おしく育てた娘の話ができないくらいに。
――ピアノを譲り受けたきっかけは?
2003年に広島で芸術イベントに携わったんですが、その頃ちょうど矢川光則さんの被爆ピアノの活動が新聞に出るようになっていて、ふと河本さんのお宅にあったあのピアノ、もしかしたら被爆ピアノっていうものじゃないのかなと思ったんです。横浜に住む明子さんの弟さんに連絡をとると「懇意にしている調律師の坂井原浩さんからは『これは捨てるべきピアノではないですよ』と言われたけれど、被爆してガラスの破片がついているし、家を解体するから処分しようと思っている」と。「処分するならいただけませんか」とお願いしたところ、HOPEプロジェクトに譲ってもらうことになりました。
そのときはまだほとんど音が出ない状態だったんですが、坂井原さんに修復してもらい、2005年に初めてコンサートで使用することができました。缶バッチを売ったり募金を募ったりして修復費用にしました。2005年の8月3日にチャリティーコンサートを開かせてもらうと、徐々に多方面から声がかかりだしたんですね。以降、ピアノを東京、大阪、奈良、京都などに運んで演奏会などで使っていただきました。来年このピアノも100歳になるので、ちょっと酷使したかなと思います。


