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【第12回JASRAC音楽文化賞受賞】株式会社矢川ピアノ工房 矢川光則さん「被爆ピアノとの出会いが、平和を願うきっかけになってくれたら」

2025年11月18日に発表した第12回JASRAC音楽文化賞受賞者のうち、株式会社矢川ピアノ工房の矢川光則さんのインタビューをお届けします。矢川さんは原爆で被害を受けたピアノを修復・保存、各地で演奏会を開催するなど「平和の種まき」を20年間続けています。

被爆ピアノを運んで全国行脚

――広島で原爆の被害を受けたピアノを全国に運んで、演奏会で使っているんですね

2005年から始めて、今年(2025年)でちょうど20年ですね。年間140~150回公演しています。今年は戦後80年ということもあって、300回近く公演の予定があります。これまででトータル3,500回を超えましたね。北海道から沖縄まで。宗谷岬のモニュメントの前で演奏したこともありますし、沖縄本島の最南端にある、喜屋武岬でも慰霊コンサートをやりました。沖縄戦で亡くなられた方に哀悼をささげる目的です。集団自決が行われたチビチリガマがある読谷村にも何回か行きました。ご存じのように、沖縄は唯一地上戦があったところです。

――全国から依頼を受けて、お一人でトラックを運転して行かれるわけですね

僕が企画しているわけではないんですが、各地から声がかかります。ありがたいことに全国に支援者がいて、活動を支えてくれています。一人の方が気を使わないので楽なんですよ。トラックも最初は小型からスタートして、今では4トンになりました。

――もともとは古いピアノを修復して寄付する活動をされていたとか?

ピアノメーカーに勤務した後に、1993年に実家(広島市安佐南区)に戻り、ピアノ工房を建てて独立しました。かつて日本は世界一のピアノ大国で、4軒に1軒くらいの割合で家にピアノがありましたが、弾かれなくなったピアノも多かったんですね。修理して流通に回しても限界がある。処分したら環境破壊につながるし、もったいないので、欲しくても買えない福祉施設や公民館などへ寄贈する活動を始めたんです。県内だけじゃなく県外や海外にも。

――その活動の中で、被爆ピアノに出会ったと

広島ですから、あの日に被爆したピアノが出てきたわけです。2001年に原爆語り部の沼田鈴子さんのアオギリ平和コンサートで、被災したピアノを使ったらどうかなと思い立ってやったところ、予想外の反響がありました。原爆を乗り越えたピアノを修理して、その音色を多くの人に聴いてもらう、こういう平和の伝え方なら、自分にもできるなと思ったんですね。2004年に依頼された長崎平和音楽祭から帰ると、広島の仲間がね「広島だけじゃなくて日本全国、全世界に広めていかんとだめよ」と。それから全国巡演コンサートを始めたんです。

――その時点で被爆ピアノは何台あったんですか?

そのときはまだ1台。活動をやる上で、1台増えまた1台と、現在は7台所有しています。僕が勝手に定義したのですが、爆心地から3キロ以内で被災したピアノを「被爆ピアノ」と呼んでいます。

――やはり、音も一台ごとに違うんでしょうか?

全然違います。ピアノは生き物ですから。同じ音の出るピアノはないです。僕の修復のやり方っていうのは、外観はそのまま残す。それぞれの持ち主の想いがつまった歴史を消すことはしません。使えるパーツはなるべく残すんです。

――海外にも行かれていますね

2010年のニューヨーク公演は、毎年行われている2001年の同時多発テロの追悼コンサートでした。僕の活動を応援してくれる友人が、知人をテロで亡くして毎年慰霊祭に参加しています。彼が被爆ピアノを持っていきたいと言うんです。アメリカへ持って行くことに葛藤があったけれど、僕の父も消防士として広島市内で被爆したから、消防士の慰霊というところに共感したんですね。スポンサーはいないので、1年半前から募金活動を行いました。いろいろな人の協力を得て、持ち出しは少なくて済みました。2017年には「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がノーベル平和賞を受賞し、ノーベル平和賞受賞記念コンサートで使うためにノルウェーのオスロに運びました。被爆ピアノの演奏はサプライズだったみたいで、相当な反響がありました。

傷ついたピアノが伝えること

――これまでに印象的だった出来事などは?

年間を通して半分近くは学校公演が多いんですよ。今年、ある小学校へ行って、6年生の男の子に被爆ピアノを弾いてもらったんですが、その子は不登校の子だったんです。学校に被爆ピアノが来るので、「ぜひ弾いてみたい」と勇気を振り絞って登校してきたと言うんです。弾いた後「僕、明日から学校行く」って。校長先生も驚いていました。傷ついたのは自分だけじゃない、ピアノも原爆で傷ついて、まだ頑張っているから自分も頑張らなければというメッセージをもらったんじゃないかな。ただのピアノじゃない、何か見えない力みたいな。平和を伝えているだけでなく、人間の生きてゆく勇気と希望や、命の愛おしさ、何かそういうことも伝えてくれている気がするんですね。

続けられるのは家族の協力があってのこと

――これからも依頼が続く限りはずっと?

今73歳なんですが、みんな80までは頑張れと言うんです。依頼はこれからも来ると思うんですが、いずれ遠方はやめることも考えないと。北海道や沖縄とか、あそこまで持って行くとなるとリスクが高いからね。これまで続けてこられたのは、もちろんいろんな人の支援や協力があってのことなんですが、僕にとってやっぱり一番の原動力は家族ですよ。世界平和を言う前に家族が平和でないとできないことです。妻、娘、息子そして孫。家族の協力があってのことですね。息子は僕の後を継いで、ピアノ調律、修理までやってくれていて本業で頑張ってもらっている。この活動は僕だけでやっていることで、息子に押し付けることはしません。

各地での出会いが原動力になって

今の子どもたちっていうのはね、自分の両親はもとより、祖父母でさえ、戦争体験がないわけですよ。僕の子ども時代、特にこういう田舎では、どこの家にもおじいちゃんおばあちゃんがいたんです。被爆地ですから、被爆者がどこの家にもいたわけです。家で平和教育について、生の声で教えてくれていたんですが、今はもう核家族だから。学校が平和教育の認識を持って、招いてくださるということはありがたいことだなと思うんですよ。その中でいろいろ教えてもらうことが多いんです。だから僕は思いますね、人間死ぬまで勉強だろうと。求められることが励みになりますし、それが原動力となって続けられているところがあるのかなと思います。そしてもう一つ。これらは核の被害を受けたピアノなんです。やっぱり核兵器は廃絶してほしいと思う。戦争を止めることはなかなか難しいと思うんですが、核兵器はまた別問題。核を使う戦争が起きたら地球そのものがなくなってしまいますから。本当にそこですよね。

「平和の種まき」がきっかけになってくれたら

――2021年に「被爆ピアノ資料館」を開館しました。作った目的も子どもたちへの平和教育に役立てたいということですね

重たいピアノ抱えてトラックのハンドルを握って全国を回るのにも限界があると、前々から思っていたんです。この活動ができないようになったからってピアノを処分するわけにはいかんでしょ。全ての被爆ピアノを1カ所で保管しておく場所が欲しかったから、コロナで活動が停止していたタイミングで資料館を作ろうと思った。今まで出向いてばっかりだったけれど今度は来てもらおうと。ここには被爆ピアノだけではなく、戦争で、爆弾や焼夷(しょうい)弾などで被害を受けたピアノも展示しています。修学旅行生でも一度に2クラスぐらいだったら受け入れられます。

平和の伝え方は押し付けるものではないと思うんです。僕はいつも、僕のやっている活動を「平和の種まき」って言っています。種をまかないと芽も出ませんし、きっかけ作りが必要なんですよ。僕自身がそうであったように、被爆ピアノとの出会いで、皆さんが平和の意識を持ってもらって、戦争するとどういうことになるのか、ましてや核兵器を使うとどういうことになるか想像してもらう。その一歩になればいいと思うんですね。今まで被爆ピアノの演奏を聴いてくれた子どもたちが、これからどんな芽を出してくれるのかとても楽しみなんです。

「被爆ピアノ資料館」の展示

株式会社矢川ピアノ工房 Profile

1995年、矢川光則氏が創業。ピアノの販売・調律とともに、古いピアノの再生を行い、福祉施設などへ寄付する奉仕活動を始める。その活動の中で「被爆ピアノ」と出会い、2001年から広島市の平和記念公園でコンサートを始める。2005年からは全国から依頼を受けて各地に被爆ピアノを運び、演奏会などで活用する取り組みを開始。現在修復した被爆ピアノを7台所有し、これまでに行った演奏会回数は3,500回を超える。2010年にニューヨークのコンサートで、2017年にオスロで開催された「ノーベル平和賞コンサート」でも使用された。また、子どもたちがいつでも学ぶ機会を持てるようにとの願いから、2021年、同社敷地内に「被爆ピアノ資料館」を開館し、平和学習の場として提供している。2025年、第12回JASRAC音楽文化賞受賞。

(インタビュー日 2025年10月9日)