Magazineインタビュー

  • TOP
  • マガジン一覧
  • 【第3回JASRAC音楽文化賞受賞】三澤洋史さん「合唱団のサウンドを作り出すのが合唱指揮者」
【第3回JASRAC音楽文化賞受賞】三澤洋史さん「合唱団のサウンドを作り出すのが合唱指揮者」

2016年11月18日に発表した第3回JASRAC音楽文化賞受賞者、合唱指揮者の三澤洋史さんのインタビューです。

音楽はとてもスピルチュアルなもの

――『ちょっとお話ししませんか』(ドン・ボスコ社)を拝読しました。「音楽はあらゆる芸術の中で最も霊的なもの」という言葉が印象的でした

同じ曲を聴いても人それぞれ捉え方が違う、そのときの気分によっても違うし、見識が広がって以前ピンとこなかった曲がすごく心に響くようになってきたとか、以前は熱狂的に聴いていた音楽がそうでもなく感じられるとか。そのときの自分の心と音楽のコンビネーションによって感じ方が変わってくるというのはありますよね。

――本当に不思議ですよね

一期一会というのかな。自分の人生のかけがえのない瞬間に流れていた曲が、その人にとっては一生に一度の曲だったりするとかね。音楽はすぐに消えてしまってはかないものだけれど、すごくスピリチュアルなところで生きているんですね。ある曲を聴くとき、作曲家の深い思いから湧き出たものが魂と結びついて、感性と火花を散らしてできていることを感じる。聴き方によってスピリチュアルな体験ができるんです。

――そういう体験を感じ、音楽の道へ?

音楽を通じたスピリチュアルな体験を、日々の生活の中で感じていたかったのかな。結果的に導かれるようにたどり着いたというか。全然違う場所にいて、だんだん音楽の方に近づいて行ったのは、運命だとも言えるし、自分の意思とも言える。でも自分の意思だけでもないし、知らず知らずのうちに近づいて行って今の自分があるみたいなところは、大きな意味でやっぱりこれは偶然じゃないな、偶然だったとしてもそれはそれでいいさ、みたいな。そういう人生観はありますね。

中学から音楽の道へ、徐々に才能が開花

――少年時代は音楽とあまり縁のない環境だったとか

音楽は好きだったんだけれど、家に楽器もなければ、父親はたたき上げの大工で、男は何か手に職をつけてというタイプだったんです。姉2人はピアノを習っていて、自分も習いたいと言っても「男はそんなものしなくていい」と言われる始末。もちろん父も悪気はなかったんだけど、大工を継がせたかったんだと思います。「音楽も手に職のうちなのに」と自分では思っていたんですね。

――でも先ほどのお話のように、徐々に音楽の道に導かれていくんですね

中学生になって、吹奏楽部に入り、同時にギターを買ってもらったんです。遅かれ早かれ、いずれ音楽の道に入る、何らかの形で音楽というものに接する人生しかなかったんだろうなとは思いますね。部活動でトランペットを吹く傍ら、近所の人たちとバンドをやって、ピアノも弾き始めました。アレンジする人が誰もいなかったので、自分でやってみたらできちゃったんです。でもいざ音を出してみたら、想像した音と全然違う。工夫しながら毎日没頭していたら、こうするとこういう音になるのか、こういうふうにしたら駄目なのかとわかってきたんです。ずっと後に音大に行って、音楽の理論を正式に習ったときに気付いたんですが、経験値的にすでにかなりのことを知っているんです。だからそのときアレンジをやった経験が、自分にとってはものすごく意味があるものでした。

――その後、指揮者を目指した動機は何だったんでしょうか?

歌ったり演奏したりするより、とにかく指揮者になりたかったんですね。高校では合唱部に入り、歌いながら全体の中でこの声がどう交わるのかみたいなことをいつも考えていたし、全体を見て音楽を構造的に捉えるということに向いていたんだと思います。ピアノも高校から本格的に習い始めて、バイエルをやったらバイエルのような曲を書き、ソナタになるとソナタのような曲をと、独学で作曲もしていました。コードやメロディーの合わせ方とか、真似するところは徹底的に。常にそういうアプローチで構造的に音楽を捉えていました。

――高校で進む道を決めたということですか?

はい。高校1年のときに音大に行くと決めました。一大決心でしたが、音楽の道に進むのならもう間に合わないと思ったんですね。父親は、一級建築士の資格を取って家を継いでほしいと思っていたけれど、何度も話して諦めたようです。

――その後上京し、国立音楽大学に入学しますね

声楽科に入って、まずは声楽を一生懸命やろうと思いました。けれども、創作オペラのサークルっていうのがあったりして、やっぱりそういうところに入っちゃうんですよ。気が付いたら指揮をしていたり、作曲して自分が指揮して上演したりとか。

――指揮は誰かに教えてもらったのですか?

作曲科の先生が合奏団を持っていて、その先生のところに弟子入りしました。大学を卒業する前ぐらいには、著名な山田一雄先生のところで本格的に指揮を習い始めました。その辺から割とアカデミックな道に行きましたね。

憧れのベルリン芸術大学へ留学

――大学卒業後にドイツのベルリンに留学されますね

その頃、ちょっと父親とこじれて家を出ていたんです。親の世話にはもうなるまいと。でもお金がないから稼がないといけない。運よくレストランのピアノ奏者に空きがあったので迷わず飛び込みました。ピアノは中学からずっと弾いていたので、ポピュラー音楽はコードを見るだけで弾けるようになっていました。アルバイトは30分のステージが1日3回あり、ステージの半分はソロを弾きます。最初はすぐクビになるかなと思ったら、やっているうちに慣れてきて、ギャラも上がっていったので、結構なお金が貯まりました。でも将来のことを考えると、このままでは駄目だと。私には本場で指揮を学びたいという願望がありました。貯金をベルリン行きの資金にして、思い切って渡欧しました。今から考えるとよくあんなエネルギーがあったなと思います。

ベルリン芸術大学に留学して2年ほど経つと、徐々に貯金も減ってきました。先生からは「今卒業してもいいけれど、もう1年やったらもっと良い成績で卒業できるはずだからもったいない」と言われたんです。悩んでいたところに母親から電話があり、うっかりそのことを漏らしてしまった。その後父親から電話で「お前が自立するまでと貯めておいたお金があるから、頼むから使ってくれ。そうしないと親として一生後悔することになる」と。本当に感謝しましたね。父親とはそのときに和解できました。それで、トータル3年間在籍して、指揮科を首席で卒業できました。

バイロイトでの体験を経て、合唱指揮者へ

――帰国後、ドイツのバイロイト祝祭劇場での経験を経て、いよいよ合唱指揮者になられますね

1997年に新国立劇場ができましたが、そのこけら落としの演目の一つで、ノルベルト・バラッチュというバイロイト祝祭劇場の伝説的な合唱指揮者が招かれました。バラッチュは80年代からずっとバイロイトで合唱団を率いて、世界に類を見ないレベルにまで質を高めた人です。そのとき私は合唱の指揮者ではなかったんですが、舞台稽古でタクトを振っていたのを見ていたバラッチュがすごく褒めてくれました。私は彼の合唱音楽作りに興味を持っていたため、その後交流を深め、1999年から5年間、バイロイト音楽祭の期間に働きながら合唱指揮を学ぶことができました。

新国立劇場では、2001年から合唱団の専属指揮者になって現在に至っています。今考えると、合唱に特化して勉強してよかったと思います。専属の合唱団なら自分の力で育て上げられると思ったんですね。オペラのプロダクションの副指揮者だと、演目に応じて指揮者やキャストが来るけれど、永続性がないため蓄積ができないじゃないですか。成長がわからない。でも専属の合唱団なら、そこを基礎にして新国立劇場の合唱団のレベルを上げて一つのスタンダードを作ることができれば、それが劇場の顔になるだろうと思ったんですね。

――専属の合唱団を育てたかったということですね

はい。どの演目でも、合唱団がそれに対応してある程度の水準を保つことができれば、劇場自体の水準が保たれることになるじゃないですか。バイロイトで学んだことを新国立劇場で生かすことができ、その後のJASRAC音楽文化賞の受賞にもつながりました。それは私が合唱に特化して学んだことの結果の裏付けであり、そこで得た自信が、これまで合唱指揮者を継続できている答えかもしれません。

歌いながらの指導で、合唱団を世界水準に

――新国立劇場合唱団を世界的な水準まで高められた、その指導のポイントとは?

先ほどの、ノルベルト・バラッチュは、ウィーン少年合唱団出身で、自分で歌って指導するんですよ。発声についてはソリストや団員、それぞれのメソッドが違ったりするので、日本ではあまりそういうことはしません。ところが、新国立劇場にバラッチュが来て、歌いながら指導しているのを見ると、すごくわかりやすいんです。自分で声を出して「こういうふうに歌え」と。バラッチュは「ちゃんと発声から共通の認識を持って合唱のサウンドを作らないと、一つの筋の通った響きにはならない」と言うんです。だから、彼は自分でどんどん歌って要求する。私はそれを体験して、本当に目からうろこでした。私も声楽科出身ですが、発声の勉強をやり直しましたね。そしてその中で、どんなサウンドでこの合唱団を作り上げるか、まず具体的なイメージを自分が持てるかどうかにかかっているなと思いました。だから私が作り上げた新国立劇場合唱団のサウンドの責任は全て私が担っていました。

音楽監督を務める愛知祝祭管弦楽団で指揮をする三澤さん

これから

――今後の抱負をお聞かせください

実は私自身は、(2025年)3月で首席合唱指揮者を返上して、桂冠合唱指揮者という立場になりました。昨年(2024年)イタリアのアッシジに行って、自分の作曲した曲だけで演奏会をやりました。アッシジは来年、聖フランシスコが亡くなって800年の聖年で、何年か前から聖年に向けたお祭りをしているんです。日本から合唱団を率いて行ったのですが、予想以上に多くのお客さんが来てくれて、合唱団も満足してくれました。今後の事はまだわかりませんが、もっと作曲をしたい意欲はありますし、自分でなければできないことをしていきたいと思います。

2016年にJASRAC音楽文化賞をいただきましたが、2010年代の後半から、聴衆の合唱団への興味や認知度が高まったと実感します。劇場をずっと支えている合唱団、目立たないところにちゃんと目を向けてくださった人たちがいるんだなというのは、とてもうれしかったし、ありがたかったです。

イタリア・アッシジで合唱団を率いてのコンサート(2024年)

三澤洋史(みさわひろふみ)さんProfile

1955年、群馬県生まれ。国立音楽大学声楽科を卒業後、指揮に転向し、ベルリン芸術大学指揮科を首席で卒業。1999年から2003年までの5年間、ワーグナー音楽祭として世界的に知られる「バイロイト音楽祭」で、祝祭合唱団指導スタッフの一員として従事。2001年からは新国立劇場合唱団の指揮者をつとめる。日本における合唱指揮者の第一人者として活躍中。作曲や台本・演出も手がけ、郷里の群馬県高崎市新町において新町歌劇団を40年にわたり率いている。著書に『オペラ座のお仕事』(2014年)『ちょっとお話ししませんか』(2020年)。2016年、第3回JASRAC音楽文化賞受賞。

(インタビュー日 2025年6月27日)