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【第4回JASRAC音楽文化賞受賞】智内威雄さん「音楽は人を回復させ、慰め喜びあう存在である」

2017年11月17日に発表した第4回JASRAC音楽文化賞受賞者、「左手のアーカイブ」プロジェクト 主宰/一般社団法人ワンハンドピアノミュージック 代表理事 智内威雄さんのインタビューです。



「音楽は人を回復させ、慰め喜びあう存在である」智内さんの言葉には、智内さんの人生そのものが凝縮されています。右手の運動障害という困難を乗り越え、「左手のピアニスト」として再起を果たした智内さんは、埋もれた音楽の歴史を掘り起こし、未来へとつなぐ活動を続けています。

ピアノとの出会い

――ピアノを始めたきっかけについて教えてください。

僕がピアノを始めたのは、3歳の終わり頃でした。きっかけは母の勧めです。母は声楽家で、僕が幼い頃から音楽に触れる環境を作ってくれました。僕の場合は少し特殊で、幼少期は視力が0.01以下の弱視だったんです。子どもって不思議なもので、目が見えなくても普通に歩き回るんですよね。近所の施設まで行って帰ってきたりしていたので、周囲が気づくのが遅れたんです。母は僕の発達に不安を感じ、「この子に何か手に職をつけさせなければ」と考えたそうです。それで、声楽の基礎となるピアノを始めさせたんですね。また、父は画家で、僕が幼い頃から家には絵画やアートが溢れていました。父は「何事も一流のものに触れてほしい」という考えを持っていて、僕がピアノを始めるときも、最初は母が教えてくれていましたが、8歳になると東京音楽大学付属の音楽教室に通わせてくれました。

――幼少期からピアノを続けるのは大変だったのではないですか?

そうですね。僕の家庭は超朝型で、父は毎朝5時にはアトリエにこもって絵を描いていました。僕も朝早くから練習するのが日課でした。学校に行く前に練習を終わらせられるので、友達と遊ぶ時間を奪われることもなく、自然と続けられたんです。練習が日常の一部になっていたので、嫌になることもありませんでした。ピアノは僕にとって「空気のような存在」だったんです。

ピアノを本格的に好きになったのは、小学校の合唱コンクールで伴奏をしたことがきっかけです。それまでピアノの練習を「試験で良い点数を取るためのもの」くらいにしか思っていませんでした。でも、伴奏をしたら友達が喜んでくれて、「人を喜ばせるためにピアノを弾く」という楽しさを初めて知ったんです。周りから怖がられていたガキ大将も、わざわざ僕の演奏を聴きに練習中の教室に来てくれて、大きな拍手をしてくれたこともありました。それから中学生にかけて練習量が一気に増えました。同時にバレンタインのチョコレートの数も、ものすごく増えました。当時はなんだかんだこれが一番のモチベーションだったかもしれません(笑)。中学の頃、グレン・グールドの『月光』の第3楽章を聴いたことも大きな出来事でしたね。少年というのはすごくシンプルで、「かっこいい」ことが絶対なんです。よくある表現ですが、稲妻が走った。これはすごいと思って、こうなりたい、こう演奏してみたいと思いました。うまくなるにはどうしたらいいか、やれることは全部やりました。

東京音楽大学付属高校に進学しましたが、高校時代は音楽の奥深さに気付き始めた時期でした。楽譜に書かれている音符の背後にある作曲家の意図を考えることが楽しくて、誰よりも早く学校に行き、図書館にこもる時間がどんどん増えていきました。朝の会が始まる時間を忘れ、教室に行くのを忘れてしまうことも多くありました。

海外留学と運動障害の発症「次第に右手に違和感が」

――その後、東京音楽大学に進まれ、海外留学もされていますね。イタリアやドイツでの経験について教えてください。

高校生の時に初めてイタリアのミラノに行って以来、海外で学びたいという思いがあったため、東京音楽大学在学中も休みのたびにミラノに行っていました。卒業後はドイツのハノーバー音楽大学に進みました。ハノーバー音楽大学は世界的なコンクールで活躍する学生が集まる名門校で、非常に刺激的な環境でした。僕もコンクールで結果を出し始めて、「これからだ」というときに、右手に違和感を覚えたんです。最初は「練習不足かな」と思っていたんですが、次第にドレミファソすら弾けなくなってしまいました。痛みはないのに指が動かない。まるで鉄格子のない牢屋に閉じ込められたような感覚でした。

ハノーバー音楽大学には音楽家の病を研究する機関があったため、そこで診断を受けたところ、医師から「局所性ジストニアだ」と告げられました。幸運なことに、この機関が中心的に研究していたのが局所性ジストニアだったんです。そのため世界的に権威のある医師のもと、恵まれた環境でリハビリを受けることができました。

――そのとき、どのように対処されたのですか?

局所性ジストニアは筋肉が意図せず硬直する病気です。リハビリでは、筋肉の緊張を解き、「脱力」を意識することが重要で、無駄な力を抜くことで自然な動きを取り戻すことを目指します。これは簡単なことではありませんでした。ただ、僕は幼少期からの教育で、困難や挑戦を乗り越える習慣が身についていました。難題ほど「よし!」と前向きに取り組む姿勢が育まれ、それが成長の原動力でした。ピアノをやめてしまえば悪化はしませんが、演奏しながらどう乗り越えるか、どう克服するかという気持ちでリハビリに挑みました。次第に、病を受け入れられるようになり、手指の硬直を和らげながら、新たな音楽活動を模索するようになりました。

左手のピアノ音楽との出会い

――その後、左手のピアノ音楽に出会ったのですね。

ピアニストとしてのキャリアを諦める覚悟をし、指揮や声楽のクラスを巡り自分の才能の可能性を模索したことがありました。その情報が恩師の耳に入るやいなや「何をしている。お前はピアニストだろう。左手のピアノ音楽をやってみないか」と勧めてくれたんです。最初は半信半疑でしたが、弾いてみると驚きました。左手だけで弾くと、楽器と一体化したような感覚があったんです。ペダルを駆使することで、音の響きを豊かにし、音楽の厚みを表現することができます。左手だけでも驚くほど豊かな音楽を作り出すことができることを実感し、「こんな素晴らしい音楽世界があったのか」と驚くとともに、その出会いが自分の新たな未来を指し示しているように感じました。

調べていくと、左手のピアノ音楽には、驚くほどの歴史がありました。第一次世界大戦で右腕を失ったパウル・ヴィトゲンシュタインというピアニストが、多くの左手のピアノ曲を生み出していました。彼の依頼でラヴェルやプロコフィエフなどが左手のための作品を書いています。ただ、その後は演奏機会が減り、多くの名曲が埋もれてしまっていたのです。埋もれているのであれば、僕が紹介していけばいいのではないか。それがこの病気になった僕の使命ではないかと思ったんです。

「左手のアーカイブ」プロジェクトの始動

――埋もれた楽曲を発掘するために「左手のアーカイブ」プロジェクトを立ち上げられたのですね。

そうです。構想に4年をかけ、2008年から収録などの準備を開始し、2010年から本格的な活動が始まりました。このプロジェクトは、左手のピアノ音楽の歴史を掘り起こし、その未来を切り開いていくことを目的としています。これまでに多くの楽曲を発掘・委嘱し、映像アーカイブを中心に、演奏会やCD募金などを通じてその魅力を広めてきました。特に映像アーカイブは重要です。左手だけで演奏するピアノ音楽は、視覚的にも非常に独特で、演奏者の手や身体の動きが音楽の一部となり、その動きが音に色濃く反映されます。映像を通じてその魅力を伝えることで、作曲家や演奏家に新たなインスピレーションを与えることができるんです。また、プロジェクトを進める中で、埋もれていた楽曲の中には、驚くほど美しいものがたくさんあることにも気付きました。それらを現代によみがえらせることで、音楽の可能性を広げるだけでなく、障害を持つ人々や音楽を学ぶ若い世代に新しい希望を届けたいと思っています。

教育福祉事業への展開

――芸術振興事業だけではなく、教育福祉事業にも力を入れていますね。

左手のピアノ音楽を広める中で障がいのある子どもたちとの出会いがありました。「かっこいい!」「やってみたい!」と言ってくれるんです。そんな彼らが音楽を楽しめる環境を作りたいと思い、入門者向けの楽譜を編曲しました。さらに、「仲間がほしい!」「みんなと演奏したい!」という彼らの願いを叶えるため、参加型イベント「ワンハンドピアノフェスタ!」を開催しています。このイベントは、観客の前で演奏する機会を設け、演奏を通じて自信を獲得し、周りの人を喜ばせる体験をすることを目的としています。左手だけで演奏するピアノ音楽を通じて、音楽の可能性を広げると同時に、障がいの有無を超えて、参加者同士で交流を深めることができる、とても温かいイベントです。僕自身が「誰かを喜ばせたい」とピアノ演奏にはまったように、多くの人にその体験をしてもらいたいんです。

――さらに、「左手のピアノ国際コンクール」も開催されていますね。

「左手のピアノ国際コンクール」は、左手のピアノ音楽を演奏するのはもちろん、新しい作品を生み出すことにも力を入れています。そのため、演奏部門だけでなく作曲部門も設けています。作曲部門では、左手のピアノ音楽の新しい可能性を探るため、世界中の作曲家から作品を募集しています。左手だけで演奏するという制約がある中で、どのように豊かな音楽を生み出すかが問われるため、作曲家にとっても非常に挑戦的な部門です。これまでのコンクールでは、受賞作品が実際に演奏され、録音や映像として記録されています。これにより、新しい左手のレパートリーが生まれ、未来の演奏家たちに受け継がれていくのです。

未来へ向けて

――これからの目標を教えてください。

僕の目標の頂点にあるものは「埋もれてしまった作品を発掘する」ということです。埋もれないためにはどうしたらいいか、多くの人に関心を持ってもらうことだと思っています。そのために左手のピアノ音楽をユネスコの無形文化遺産に登録すること、コンクールもその布石の一つです。これは目標ですが、僕の使命だと思っています。発掘するだけでは足りない。作曲者に新たな楽曲の作曲や編曲を委嘱するだけでも不十分。ヴィトゲンシュタインが精いっぱい投げてくれたものを、僕が拾い上げて、今度はそれを未来に向けて投げていかなくてはならない。いつか、誰かがそれを拾ってくれることを願って。「左手のアーカイブ」プロジェクトは現在、一般社団法人ワンハンドピアノミュージックとして活動を引き継いでいます。

「音楽は人を回復させ、慰め喜びあう存在である」この言葉を胸に、これからも左手のピアノ音楽を通じて、音楽の新たな可能性を追求していきます。ぜひ、左手のピアノ音楽を通して、音楽の素晴らしさを感じていただければうれしいです。

智内威雄さんProfile

1976年生まれ。2001年に局所性ジストニアにより右手に運動障害が発症した後、「左手のピアニスト」として再起。2010年に「左手のアーカイブ」プロジェクトを発足。左手だけで弾くことのできるレパートリーが内外に不足している状況を打破するため、18世紀以降、散逸などにより埋もれた楽譜を、音楽史などを手がかりに収集。新たな楽曲の委嘱も通じて、これまでに300曲以上を世に送り出している。楽譜の出版、演奏会・参加型イベントの実施、CD募金活動を重ねることで、この分野の魅力を広く認知させる活動を行っている。2017年、第4回JASRAC音楽文化賞受賞。一般社団法人ワンハンドピアノミュージック代表理事。

(インタビュー日 2025年3月17日)