2025年03月24日
【第11回JASRAC音楽文化賞受賞】久保田麻琴さん「自分にできることは『日本の心』を音として残すこと」
2024年11月18日に発表した第11回JASRAC音楽文化賞受賞者のうち、音楽家・プロデューサーの久保田麻琴さんのインタビューをお届けします。

中学でジャズの洗礼を体験
――石川県小松市のご出身ということですが、音楽に触れるきっかけは?
子どもの頃、家にはレコードプレーヤーとピアノがありました。小学校のときに小松市の少年合唱団に入ったのが最初の音楽体験ですね。私はアルトだったのでいつもハーモニーばかりやらされていました。中学ではブラスバンド部に入ってサックスを吹いていました。放課後はジャズやムードテナーを耳コピしたり、その頃から友だちの影響もあってジャズを聴くようになりました。みんな自分の兄貴やおじさんからレコードを借りてくるんですよね。アート・ブレイキー、キャノンボール・アダレイ、デューク・エリントンなどの巨匠が活躍していた時代で、日本でも公演は行われました。実家が映画館と興行をやっていた関係で、金沢や富山でのコンサートがあると招待してくれるんです。だから、中学に入ってからたくさんのバンドを観ています。
それは強烈な体験でした。ちょっと人間離れしている神みたいな人たちだから。そういうマエストロたちを見ているので、自分が音楽家になるなんて一切思わなかったですね。あそこまで行くのは到底無理だと。音楽は好きだったので、普通に就職したとしても音楽のそばにいたいなとは思っていました。
――その後京都の大学に進学し、そこからミュージシャン活動に入っていくわけですね
そうです。大学に入って、それまであまり聴いていなかったロックを聴くようになりました。でも強烈なジャズの免疫が入っているので、ロックに対する反応は冷静でしたね。当時はロック以外でもジャズに加えてフォーク、ブラジルといろいろなジャンルを聴いていました。でも60年代の終盤はロックの革命期ですから、どうしてもロックの男になっていくわけですよ。ジャズのことはだんだんと忘れていきます。
ミュージシャンとして活躍後、プロデュース業へ
――その頃アメリカを旅されていますね?
大学を休学してアメリカを旅したんですが、もうロックざんまいでしたね。ヒッチハイクや長距離バスでアメリカを回りました。サンフランシスコでグレイトフル・デッドのライブを観たり、数多くのライブを体験しました。7カ月くらい旅していましたが、すっかり感覚が変わりましたね。帰国したらもういっぱしのヒッピーみたいになっていました。学校は追い出されるみたいに卒業したんだけど、在学中より「裸のラリーズ」(1967年、同志社大学の学生だった水谷孝を中心に結成されたロックバンド)をちょっと手伝っているうちに、今度は自分のバンド「夕焼け楽団」を別プロジェクトで立ち上げてと、多忙になってきました。23歳くらいだったかな。そのとき既に東芝でソロアルバムも作り始めていました。
作詞・作曲もしていましたが、私は実は作曲は得意ではないし、そんなに好きではないんです。のめりこむことはなかったです。
夕焼け楽団で何枚かアルバムを制作しましたが、他に替えがきかないような、独特なところがあるバンドで、ロックにアジア性とかトロピカル性を入れるのも、あまり日本にはなかったスタイル。日本人はいわゆるロックらしいロックみたいな嗜好が強いので、逆の意味で受け入れられたんでしょうね。
70年代からプロデュース業も始めました。元々私は制作する側に回るものだと思っていました。自分としては、他者の音源をミックスしたりマスタリングしたりの、プロデューサーやエンジニアとしての仕事の方が居心地が良かったんです。昔から録音など技術的なことが好きだったんですね。

世界各地の音楽を求めて
――その後、世界各地の音楽を紹介していくことを一種のライフワークとされています
2000年代に入ってからですね。ブラジル、エチオピア、モロッコ、アジア各国。レコーディングで行ったのがきっかけです。ちょっとしたインスピレーションというか、実はあんまり深く考えてはいなかったんですね。ただ、ブラジルには60年代にすごく影響を受けました。1969年の「アントニオ・ダス・モルテス」というブラジル映画がその象徴です。アメリカ映画とは別の味わいというか、色彩があるんですよ。大学生の頃に観て、私にとってはワールドミュージックの原点ですね。音楽はアメリカから来たものという固定観念を覆し、世界規模でルーツがあるんだということを意識する示唆的な体験でした。心の底の方から沸々ときたのはこの映画の空気感です。
90年代に、THE BOOMの宮沢君に誘われてブラジルに行き、リオのカーニバルを見ているんです。リオはいい街ですが、音楽的にはこれじゃないと感じ、2000年代になってブラジルの北東部のレシーフェという町に行きました。ここはものすごい濃密な音楽空間です。多分、アメリカで言えばニューオーリンズとか南部ですよね。カーニバルも良質でコマーシャルじゃない。もう本当に地元の人たちのための多種の音楽があるんですよ。サンバやボッサだけじゃない、いろんなルーツのリズムや旋律の音楽があり、とても濃厚です。この後レシーフェには何回も訪問しています。
日本との接点に気づいた熊野古道での邂逅
熊野古道で
――日本を意識していくのはこの頃からですか?
2007年ですね。紀伊半島の熊野古道を歩いたんです。映画「スケッチ・オブ・ミャーク」のなかでも語っていますが、何かスピリチュアルなものが降りてきたみたいな、ものすごく不思議な体験がありました。そういうことを期待していたわけではないんですが、その体験が日本を意識するきっかけになりました。GPSが付いたというか、自分の心がどこにつながるか初めてわかった体験ですね。そこからですよ。宮古島で古い歌に出会ったり、阿波踊りもそう。たまたま縁があったりと不思議な体験が続いています。
――沖縄行きのきっかけは?
沖縄には縁があったんです。70年代に沖縄にハマって、喜納昌吉の『ハイサイおじさん』に衝撃を受けて本土に紹介したりとかね。沖縄に移住していた友人に宮古島を薦められたこともありますが、本能的に宮古島へ。行ってみたら古謡やルーツの古い神行事に出会いました。これはちょっとただ事じゃない、こんな風習があるんだと。それまでは聴いても自分のルーツだと思いづらかった民謡というものが、老婆たちの歌とともに心に刺さったんです。
――その出会いが映画製作へとつながるわけですね
最初はオーディオだけだったんですが、これは音だけでは伝わらない。ちょっと次世代にパスしておかないとまずいなと思いました。古謡はスピリチュアルソングだから、一種の宗教儀式で歌う歌なので、映像で残しておかないと、と思ってね。とにかく聞き込みで関係者を探して取材して、映画「スケッチ・オブ・ミャーク」になりました。神行事って一種の古代的なもので、現代のライフスタイルと合わないので、なかなか継いでいく人がいない。今後途絶えていく可能性があり、これは残しておきたい、残しておく必要があるなと思ったんですね。
――その後阿波おどりや、岐阜県の郡上白鳥の音、天草のハイヤ節などの音源を残していく現在の活動へとつながっていきます
高円寺阿波おどりを見に行ったら、あまりのすごさにぶっ飛んで。現場で体験しないとわからないはずだなと思い、これはロック的な、今の周波数で録っておきたい、録っておくべきだと。そこで高円寺の阿波おどりの協会に相談に行きました。そのとき応対した協会の役員が、10年くらい前にレコーディングで仕事をした笛の奏者だったんです。ご縁ですね。だから録音して発売することに全く問題はありませんでした。その後に本場徳島に行ったときも高円寺から紹介してもらったことに加えて、徳島阿波おどりと宮古島の少なからずの縁もあって、宮古と関わりのある人間だったら信用できるということで録音作業がスムーズにいきました。信頼関係ですよね。そうでないとなかなかよそ者が行って録音するようなことはできません。

阿波おどり『ぞめき』シリーズのレコーディング
古代のバイブレーションを残したい
――具体的にはどのような活動をされているのですか?
とにかくヘリテージというのは、アメリカだとスミソニアン博物館に集めて、伝統を守っています。日本でも文化庁が支援をしていると思いますが、どうしてもこういうフォークロア的な部分には注意がいかない。ただ私としては、自分の心のうずきはヘリテージを日本の博物館で見ることでは癒されないと思うので、熊野古道で感じたような古代のバイブレーション、周波数と波形で残せればと思います。
自分にできることは、ヘリテージを音として残すこと。それが日本の心を残すことになるのかなと思うんです。スピリットの部分が音として残っているのなら残しておきたいという思いがあって、そういう使命に動かされますね。
久保田麻琴さんProfile
1949年、京都市生まれ、石川県小松市出身。大学在学中に「裸のラリーズ」のメンバーとして音楽活動を開始。1972年に結成した「夕焼け楽団」および「ザ・サンセッツ」として、ニューオーリンズファンクやアジア的要素などを独自のグルーヴで融合させ、ワールドミュージックブームの先駆けとなる。90年代以降は多くのアーティストのプロデュースを手掛けるとともに、細野晴臣とのユニットでアルバムを発表するなど、精力的に活動。近年では南島音楽や阿波おどりなど、日本の伝統音楽を国内外に発信。宮古島の神歌に焦点をあてたドキュメンタリー映画「スケッチ・オブ・ミャーク」(2011年公開)を原案・出演、同作品はスイス・ロカルノ国際映画祭の批評家週間でスペシャルメンションを獲得した。2024年、第11回JASRAC音楽文化賞受賞。
(インタビュー日 2024年12月23日)