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高梨康治さん(作曲家・キーボーディスト)インタビュー 「僕にしかできない音楽を世界中に届けていきたい」

バンド活動からキャリアをスタートし、現在は数多くのアニメ劇伴を手掛ける作曲家・キーボーディストの高梨康治さん。作曲活動と並行して国内外でのライブ活動を続ける高梨さんに、創作の原点や今後の活動についてお話を伺いました。

「生きた証を残したい」 

――高梨さんは、数多くのアニメの劇伴を手掛けられています。音楽を始めたきっかけは何でしたか

僕の家庭環境は少し複雑で、生まれた時から母子家庭という状況でした。14歳くらいの時に「良い学校に入って良い会社に就職する」という生き方は、自分には現実的ではないと悟ったんです。昭和の時代、世間的にも「普通」から外れることに対して厳しい風潮があったので、自分の生い立ちを重く受け止めてしまうこともありました。そんな中で「自分が生きた証を残したい」「何かを成し遂げたい」と強く考えるようになったんです。

――その「生きた証を残したい」という思いが、音楽に繋がったのでしょうか

そうですね。その頃、何をすれば自分の存在を残せるのかをいろいろ考えました。そんなとき、友人に誘われてイギリスのバンド「レインボー」の日本武道館公演を観に行ったんです。彼らが大勢の観客を魅了する姿に衝撃を受けて、「俺、ミュージシャンになろう!」と決意しました。バンドマンとして世界中を回りたいと思ったのがきっかけですね。それからギターを始めて、リッチー・ブラックモア(レインボーのギタリスト)の演奏を一生懸命コピーしていました。

――ギター少年でしたか。そこからバンド活動を始められたんですね

最初は本気で「俺はレインボーに入るんだ!」って思ってたんです。でも途中で「リッチーがいるからギターやってたら入れないじゃん」って気付いて(笑)。それでキーボードに転向しました。キーボードならレインボーに入れるかもしれないって。子どもだったからね。最初は耳コピーして、譜面も読めなかったけど全部独学で学びました。その後、バンドを組んで少しずつオリジナル曲を作るようになっていって、20歳近くでインディーズでCDをリリースして各地のライブハウスを回ってました。20代後半にバンドでようやくメジャーデビューしましたが、結局バンドは売れずに解散。当時はとにかくお金が無くて、もやしとサンマしか食べられないような日々でした。

総合格闘技イベント『PRIDE』テーマ曲に"魂を込める"

――高梨さんにもそんな苦しい時期があったとは知りませんでした

バックバンドのオーディションを受けて仕事をもらったりしながら、アルバイトも掛け持ちして生活していました。そんな時に、総合格闘技イベント『PRIDE』のテーマ曲の話をいただいたんです。そこからいろいろなことが大きく動き始めました。

――転機となったのが『PRIDE』のテーマ曲なんですね

実は『PRIDE』は、父が亡くなった日に作った曲なんです。父とは一緒に暮らしたことはありませんでしたが、亡くなる少し前に会える機会があって「母さんのことを頼む」と言われたんです。その後、知り合いから父が亡くなったことを聞かされました。僕の立場で、葬儀に「息子です」と出るわけにはいかなかったので、父の通夜に一般の弔問客に混ざって参加しました。そこで父の遺影を見たとき、さまざまな感情がこみ上げてきて。

そんな日に締め切りの関係で『PRIDE』を作らなければならず、本当に泣きながら作曲したんです。30歳を過ぎても音楽で鳴かず飛ばずの弱い自分を変えたいと思って、この曲に「ここから先、どんなことがあっても負けねぇから!」という決意というか、自分の魂を込めたんです。"音楽に魂を込める"ということを、この曲で初めて自分で体現できた気がします。

――高梨さんの魂が込められた『PRIDE』は多くの人に届いたのではないでしょうか

そうですね。この曲を出せたことで自分の音楽観も変わりましたし、その後の劇伴の仕事をいただくきっかけになりました。そういう意味で、この『PRIDE』は父がくれた置き土産のような気がしているんです。この曲は1997年10月に東京ドームで開催された総合格闘技「PRIDE.1」で生演奏しました。その時、幼い頃に母からもらった父の写真を服に忍ばせて「これが俺からの葬式だから」と心の中で語りかけながら演奏しました。

劇伴の道へ

――そこから劇伴の仕事が増えていったんですね。高梨さんの作品には、ロックや和楽器に加えてオーケストラの要素も巧みに取り入れられています

当時はロックを得意とする劇伴作家が少なかったようで、そのニッチな部分で仕事をいただけたし、和楽器のアレンジについては、僕が参加していたバンド「六三四Musashi」は和楽器も取り入れていたので、その経験が生きました。あとは何といっても人に恵まれましたね。ある日、目をかけてくれていたプロデューサーから「オーケストラのアレンジを1カ月で覚えてきたら仕事を任せる」と言われたことがあって、オーケストラの知識はゼロだったので「ビオラってどんな楽器ですか?」からスタート(笑)。でも、「1カ月で覚えて仕事がもらえるならやってやろう!」と猛勉強しました。知識のある人に聞いたり、見よう見まねで学びました。結果的に、そのプロデューサーに認めてもらい仕事をいただきました。稚拙な部分もたくさんあったけれど、この経験は僕にとって大きな自信になりました。

――高梨さんが「Team-MAX」を立ち上げられたのはこの頃でしょうか

僕が作りたい音を作るためには信頼できるメンバーが必要で、音楽制作集団Team-MAXを立ち上げました。音楽制作からライブ活動まで一緒にやっています。僕は家庭環境の影響もあって、昔から「仲間」というものに強い憧れがあったから、アニメやゲームの"ギルド"のようにみんなが集まってワイワイできる場所を作りたかったんです。名称は、当時『ウルトラマン マックス』の主題歌を担当(作曲・編曲)していて「俺たちマックスだよな!」なんてノリで決めました(笑)。

JASRAC賞国際賞を連続受賞、海外に楽曲が届いていることを実感

――海外の著作権管理団体からの分配が一番多かった楽曲に贈られるJASRAC賞国際賞を、『FAIRY TAIL』や『NARUTO -ナルト- 疾風伝』などのアニメ劇伴の楽曲が受賞されました

とってもありがたいことですよね。JASRAC賞の国際賞の連絡を初めていただいたときはとても驚きました。海外で自分の曲が聴かれている、使われているという実感は、最初はありませんでした。それこそYouTubeで多くの方がカバーしてくれているのを見たり、実際にJASRAC賞をいただいたことで、ようやく実感したという感じでしたね。

――高梨さんは海外のファンも多く、現地でも精力的にライブ活動をされていますね

アニメの楽曲を海外で演奏した時のお客さんの反応はすごいですよ。中学生の頃に夢見た「世界を回る」という目標が、形を変えて叶ったんです。そして、今年は新プロジェクト「Yasuharu Takanashi's Far East Groove」を立ち上げて、スペイン・カルタヘナで開催されるヨーロッパ最大級のフェス「Rock Imperium Festival」に出演することが決まりました!中学生の頃に憧れた、海外のバンドと共演する機会を得られたことは本当に夢のようで、今から楽しみです。

2025年6月にフィンランド、スペイン、イタリアでライブを予定

――高梨さんの「夢を叶える」原動力は何でしょうか

僕がプロから見せてもらったのが「夢」だったからかな。Team-MAXの若い子に「僕がみんなに残せるものって何だろう?」と聞いたことがあって、その時「ナッシーさんが夢を叶える姿が見たい」って言われたんです。「Rock Imperium Festival」への出演もそうですけど、音楽を通じて「あなたが頑張ればこんなこともできるよ!」と夢を見せる存在でありたいと思っています。あとライブ活動も原動力ですね。ライブはお客さんが大切なお金と時間を使って来てくれるから、パフォーマンスとしても魅せたいし、エンターテインメントを追求していきたいと思っています。僕にしかできない音楽を、これからもいろんな形で世界中に届けていきます!

――最後に、夢を追う音楽クリエイターに向けてメッセージをお願いします

若い子は失敗を恐れずにどんどん挑戦すればいいんですよ。失敗は経験値となり、自分の厚みを作ります。僕自身たくさんの失敗をしてきて、それが今の自分を支えています。あとは音楽を楽しんでほしいですね。音楽は根本的に「遊び」だと思っていますから、楽しむ気持ちを忘れずに、夢を追い続けてください。

(インタビュー日 2025年1月25日)

高梨康治さんProfile

1963年4月13日生まれ、東京都出身。作曲家、編曲家、キーボーディスト。音楽制作集団Team-MAX主宰。ハードロックとオーケストラを融合した重厚かつ華麗なサウンドを得意とし、映画、ドラマ、アニメ、ゲームなどの劇伴音楽やテーマ曲を多数制作。和楽器をフィーチャーしたロックユニット「刃-yaiba-」のリーダーとして国内外での演奏活動も積極的に行っている。主な作品は『NARUTO-ナルト-疾風伝』『FAIRY TAIL』『美少女戦士セーラームーンCrystal~Cosmos』『プリキュアシリーズ』(フレッシュ~スマイル)の劇伴音楽、総合格闘技『PRIDE』テーマ曲など。2013年、2014年、2017年、2020年から2024年にJASRAC賞国際賞を受賞。