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【第7回JASRAC音楽文化賞受賞】瀧井敬子さん「音楽は生きるエネルギーを与え、心に喜びを与える」

2020年11月18日に発表した第7回JASRAC音楽文化賞受賞者、音楽学者の瀧井敬子さんのインタビューです。これまでの活動の一端と、これからの抱負についてお話をお聞きしました。

音楽の研究は論文を書くだけではなく、音にまですることが大事

――「夏目漱石とクラシック音楽」(毎日新聞出版)を拝読しました。明治時代の文豪が西洋音楽に関心を持ち、どのような体験をして西洋音楽を受け入れてきたのか、非常に興味深かったです。

「ハイカラの音楽会」ポスター(オリジナル50部限定・銅版画・ガンピ紙刷・柳澤紀子制作)

本の執筆を進める中で、漱石の音楽体験が彼の文学活動や評論活動と密接に結びついていることがあらためて確認できました。文学作品中のいろいろな場面で漱石の憧れでもあった洋楽が描かれて、バイオリンやピアノの音色が響いている。実は拙著を出す前、この研究がどのように関心をもって読んでいただけるか反応を知るために、漱石が実際に上野の奏楽堂で聴いた演奏会を再現した「ハイカラの音楽会」というコンサートを企画しました。音楽の研究は論文を書くだけではなく、実際の音にすることが大切だと考えたんですね。その年(2017年)は漱石生誕150年に当たる年で、漱石がどんなクラシック音楽を聴きに行ったのか、実際に音で感じて追体験してもらいたかった。会場では当時の貴重なプログラムや楽譜、SPレコードなども展示しました。おかげさまで皆さんに楽しんでいただけました。

――パンフレットは読み物としても中身が濃いものですね。

私は文学と音楽、美術といったジャンルの横断、融合した研究を考えています。明治の文化人も同様で、漱石は美術や彫刻にも興味があったし、森鷗外も本業は医者でしたが、文芸活動だけでなく美術や彫刻にも造詣が深く、晩年は帝室博物館(現在の東京・京都・奈良国立博物館)の総長を務めています。当時活動していた文化人を調べていくと、みんなつながっていくんですよね。そこを研究していくと日本の近代音楽史のあけぼのが見えてくるんです。

――文中には漱石が体験したさまざまなエピソードが生き生きと描写されています。

漱石がどんな音楽を聴いていたのか、事実を知ったうえでその音楽を聴くと、漱石ってすごいところに目を付けたなって感心します。彼の小説を読むと本当にいろいろなところから音楽が聞こえてくる。音楽は登場人物のインテリ度とか、ハイカラさとか、人間性まで表現しています。例えば「吾輩は猫である」では、「猫がお腹がすいたので、ベートーベンのシンフォニーをまねて鳴いてみたけれど、わかってもらえなかった」とか、「ベートーベンのシンフォニー」の記述によって「自分はこんなにハイカラさんよ」って読者に訴えますよね。登場人物にちょっとピアノを弾かせるとか、弾けることがわかるような設定にしているとかね。そのように読むと文学の読み方も楽しく、違って読めるってことですよ。

――想像を巡らせながら、一つの事象について調べると、いろんな広がりが出てくるんですね。

「夏目漱石とクラシック音楽」(毎日新聞出版刊)と「ハイカラの音楽会」パンフレット

研究の出発点

――研究の出発点についてお聞かせください。

東京藝術大学の楽理科で音楽史や音楽理論を学びましたが、ドイツ語が好きで、ドイツ語の音楽書を翻訳することから始めました。それから翻訳書を出版して、次は書き下ろしと。でもどんどん世の中がグローバル化していくにつれ、単に西洋音楽史を研究するだけではつまらないと思ったんです。ドイツ人は、自分たちの音楽が日本でどのように受容され、伝わっていったのかということに興味があると分かったんですね。私たちも日本の文化を国外に広めたのは誰なのか、興味がありますよね。ドイツでは森鷗外はゲーテの「ファウスト」を最初に翻訳して日本に紹介した人として有名になっている。明治の文豪がどうやってクラシックを受容してきたか調べていくと、この人たちが張っていたアンテナはなんて感度がいいんだろうって思う。調べれば調べるほど新たな発見があって、徹底的に掘り起こしたくなるんですよ、本当に困ってしまう(笑)。

森鷗外の洋楽受容の軌跡

――鴎外も当時相当な音楽体験をされていると。

鷗外の研究にも没頭しました。鷗外は1884(明治17)年にドイツ留学をしているのですが、西洋文化の吸収にいそしんで、最初の滞在先のライプチヒではオペラ体験もしています。彼はグルックの代表作「オルフェウス」をヨーロッパの劇場で見た最初の日本人なのですが、台本を買って漢文体のメモで感想まで残しました。彼が購入した台本は、東京大学総合図書館に現存しています。

――漢文体で?普通は日本語で残すと思うのですが。

それは普通の人(笑)。鷗外は単なる訳をしたのではつまらないと思った。もっと高尚なわけです。

――漢文で残されても、その意味をまた考えないといけないですね。

そういうのは現代人の考えであって、当時のインテリは漢文をいかにセンス良く書き、読めるか、それができないと本物ではない。だから漢文体での翻訳を試みて、意訳ではなく原文通りに訳す。それができたのが鷗外なんですね。

――それだけの教養と能力があったということですね。

自分にどれだけ知性・感性があるか、彼にとっては漢文で書くことは面白いゲームだったんですね。漢文は定型の中に凝縮して内容を反映できる。台本だけではなく実際にオペラを観ているから筋書きが分かる。そんなことができてしまう。文豪の受容は恐ろしいです。その天才ぶりがいまだに鷗外・漱石の作品が現代に残るところではないでしょうか。

――この鷗外訳オペラ「オルフエウス」は2005年に日本で初演されますが、先生がプロデュースをされていますね。

東京藝術大学の奏楽堂で行いました。90年間眠っていたものが上演されるということで話題になりました。1914(大正3)年はグルックの生誕200年にあたる年で、「オルフェウス」を上演しようと、作曲家の本居長世が鴎外に歌うための翻訳の依頼をしたんですね。鷗外は留学先のライプチヒで買った台本をもとに、あっという間に翻訳を仕上げたのですが、それが本居たちの使う楽譜と版が違っていたために、これでは歌えないと翻訳のやり直しを求められました。今度は時間がかかって、やり直した翻訳台本が完成したときには第一次世界大戦が始まってしまい、陸軍の軍医だった鷗外は多忙になるし、本居たちも経済的に苦境に陥ったりで、結局オペラの上演計画は頓挫してしまいました。しかし、鷗外は苦心した2番目の翻訳台本を、活字として残したんです。のちに、それは岩波書店発行の「鷗外全集」の第19巻(昭和48年発行)にも所収されました。

私は本居たちが使おうとしていた楽譜がペータース版だったことを突き止めて、「森鷗外訳オペラ『オルフエウス』」と題して、詳細な解説つきで楽譜を2004年に出版しました。そして、その楽譜を使って翌年に東京藝術大学奏楽堂で初演したのです。7年後の2012年には、東京都文京区の「鷗外生誕150年記念事業」の一環として再演もされました。

福祉と音楽を横断した活動

――現在の活動はどういうことを主眼とされているんですか?

福祉活動に力を入れています。少しでも世の中のために役に立ちたいという気持ちが強くなり、岡山の社会福祉法人「旭川荘」を拠点にして、音楽と福祉活動を掛け算するどうなるかということで、いろいろ試行錯誤しています。

――それはどのようなきっかけで?

文豪の音楽受容の研究と並行して、日本近代洋楽史の恩人たちの研究を行うなかで、日本の近代洋学史に多大な貢献をしたピアニスト、レオニード・クロイツァーを調べる機会がありました。クロイツァーは亡くなる1カ月前の1953(昭和28)年10月に岡山で独奏会を行っていたんですが、そのとき使われたピアノが岡山の旭川荘に現存していることがわかったんです。それはヤマハの初期のフル・コンサート・グランドピアノの一つでした。旭川荘というのは医療がとても充実している大規模な福祉法人なんです。2015年に他界された、当時の名誉理事長の江草安彦氏は福祉活動の中での芸術の重要性をとても理解していた方でした。そのころ私も芸術と福祉の可能性を模索しているところだったため、そこが合致して、「芸術×福祉」の活動基盤が作られていったんです。「グラチア・アート・プロジェクト」と銘打って、その第一歩として2013年に「グラチア音楽賞」を創設しました。次世代の日本の音楽界を背負っていくに違いない、才能あるかつ福祉活動に意欲的に立ち向かう演奏家を発掘し、彼らを経済的にも応援する顕彰制度が不可欠だと考えたんです。

――具体的にはどのような活動をされているのですか?

旭川荘は幼児から高齢者まで、さまざまな障害を持つ方が利用されていて、職員も含めると5,000人規模の社会福祉法人です。「グラチア音楽賞」の受賞者には、賞金だけでなくCDを制作して差し上げる副賞もついています。受賞者が望めば、何回でもCDを作る権利があります。制作資金は「グラチア瀧井アート基金」から拠出します。受賞者たちには、腕を磨くためなら何回でも、好きなときにCDを作るようにと勧めています。

旭川荘では美術活動が盛んで、敷地内には小さいギャラリーもあるくらいなので、CDジャケットには旭川荘ギャラリー所蔵の絵画をデザイン化して使用しています。グラチア賞の受賞者たちによる多種多様なコンサートは、もちろん施設棟で頻繁に行い、演奏者にはギャラもきちんと支払っています。2015年には施設の外に出て、岡山シンフォニーホールでオペラ「アマールと夜の訪問者たち」を上演しました。プロのオーケストラとソロ歌手たちに混じって、旭川荘の職員、介護福祉士、彼らに介護されている皆さんも合唱として出演し、大喝采を浴びました。介護する人もされる人も非日常空間で歌ったり演技することによって、日常に戻ったときに双方の意識が変わるんですね。音楽は生きるエネルギーを与え、心に喜びを与えるんです。福祉と芸術を掛け算すると、こんなすごいことになるのだと実感しました。

(左から)「ラファエル・フォン・ケーベル 9つの歌」「ピアノ作品にみる『山田耕筰ルネサンス』」「クロイツァーの記憶」CDジャケット

――ほかにもコンサートプロデュースも?

2023年10月公演「ラインベルガーを知ろう!」の一場面  写真提供:長井市

今、一番力を入れているのは、山形県長井市における年5回の公演です。毎回、テーマ性のある企画を立案しています。出演者はグラチア賞の受賞者が中心となって、地元の皆さんとともに創意工夫して、コンサートやオペラの公演を行っています。

長井市とは、私がオペラ「ゼッキンゲンのトランペット吹き」を2006年に日本初演した時からのご縁です。2026年には、日本初演20周年記念公演も予定しています。長井市は南ドイツのゼッキンゲン市だけでなくリヒテンシュタイン公国とも友好関係にあります。この友好関係を生かして、19世紀のラインベルガー(1839−1901)の、日本ではまだよく知られていない作品の発掘にも取り組んでいます。ラインベルガーはリヒテンシュタイン生まれの音楽家なんです。

これから目指すところ

――今後の抱負をお聞かせください。

「芸術×福祉」を発展させ、「芸術×福祉×地方都市の活性化」を目指しています。長井市は「音楽を基軸としたインクルーシブなまちづくり」に積極的で、旭川荘とも交流しています。目下、4年先の公演内容まで考えてあります。先の目標があるから現在地がわかる。今、何をやるべきか、自然にみえてくる、そんな感じでしょうか。

――それは楽しみですね。さらなるご活躍を期待しています。

「JASRAC音楽文化賞」副賞の盾を持って

瀧井敬子さんProfile

1946年、札幌市生まれ。東京藝術大学大学院修士課程修了。専門分野は明治期の日本音楽史など。

主著に「漱石が聴いたベートーヴェン」(中公新書)、「夏目漱石とクラシック音楽」(毎日新聞出版)、共編著に「幸田延の滞欧日記」(東京藝術大学出版会)、「森鷗外訳オペラ『オルフエウス』」(紀伊國屋書店)など。

東京藝術大学社会連携センター特任教授、くらしき作陽大学特任教授、国立西洋美術館客員研究員などを歴任。現在、社会福祉法人旭川荘「グラチア・アートプロジェクト」代表。山形県長井市音楽芸術アドバイザー。

2020年、第7回JASRAC音楽文化賞受賞。

(インタビュー日 2024年7月19日)