Creators' View

JASRAC®一般社団法人 日本音楽著作権協会

“作家性の蛇口”をどこまでひねるか 広川 恵一

“作家性の蛇口”をどこまでひねるか

広川 恵一

幼少期・音楽との出会い

幼い頃はどちらかというとインドア派でした。両親が共働きだったので祖父母や弟と家で過ごすことが多かったですね。絵を描いたり、ミニカーで遊んだりしていました。小学校に入ってから野球を始めたことでインドア派を卒業しました。

音楽との出会いは、車内で流れていたラジオです。当時車で20~30分のところにある保育園に通っていたのですが、車内でいつもラジオが流れていて、はやりの曲などを聴いていました。また、両親ともに音楽好きでした。特に父はバンドを組んでいて、自宅にドラムセットがあったので、小さい頃からおもちゃとして遊んでいました。自然と音楽に触れることが多い環境だったと思います。

アウトドア派の両親の影響でスキー旅行に行っていました。

高校でのバンド活動

高校では軽音部に入部してバンド活動を始めました。部員の趣味の偏りもあって、J-POPよりも、インディー・ロックやパンク・ロックのカバーが中心でした。入部してからしばらくドラムを担当していましたが、2年生になる頃からベースを始めました。きっかけはジャミロクワイの楽曲に出会ったことです。ベースのかっこよさに心を引かれましたね。以降、ベースの存在を強く意識するようになり、作曲家となってからもベースが効いている曲を作ることが好きです。今でもジャミロクワイの影響を受け続けています。

高校ではライブも積極的にやっていました。校内での定期ライブのほか、卒業後にはライブハウスでも演奏していました。よく「バンドをやるとモテる」と言われますが、私はあまりモテませんでした(笑)。所属していた軽音部がとにかくストイックにロックを探求するようなスタンスで、近寄りがたいイメージを持たれていたからかもしれません・・・。どちらかというと男子から人気があったと思います。

高校のライブでベースを演奏する様子。

美術大学に進学

高校時代から音楽家になりたいという夢はありましたが、「音楽の仕事=バンドでプロになる」という認識で、作曲を仕事にするという発想がありませんでした。そこで音楽の次に興味があったデザインの仕事をしたいと思い、東京造形大学に進学することに決めました。

大学ではインテリアデザインについて学びました。初めに「デザインとは、オーダーを正しく分析し、問題を美しく解決すること」と教わりました。その考えは作曲の仕事でも同じことが言えると思っています。そういう意味でも大学で学んだことは間違いなく生かされ、役立っています。

授業は基礎から応用までしっかりとアートとデザインを学べるものでしたが、一部特殊なものがありました。スプーン曲げの授業、呼吸法を学んでカードの裏側を透視する授業などです。別の学科の授業を受けても単位が取れたので、実験映画や哲学など興味の湧いたものは積極的に受講していました。今でもすぐに思い出せる印象深い授業が多かったですね。

大学時代に作った筒型スピーカーです。

初めての制作依頼はサークルの友人から

大学では身体表現とファッションショーを組み合わせた舞台芸術のショーを行うサークルに入りました。

ある日、映像系の学科で学ぶサークルの友人から「自分の作った映像に音楽をつけてほしい」と頼まれました。それまでバンド活動をする中で作詞、作曲をしていましたが、一人で制作したことはありませんでした。初めて人から頼まれて音楽を作ることになり、いざ始めてみるともちろん大変ではありましたが、「楽しいし、一人でも音楽が作れる」という気持ちが芽生え、「音楽の仕事=バンド」だけではないことに気が付きました。

音楽家になると決めた理由

この友人は、大学在学中から外部の制作の仕事を引き受けていました。その流れで引き続きその映像作品に音楽を付けてほしいと頼まれましたが、自分の作ったことがないジャンルのオーダーもあります。慣れないジャンルの作曲はとても苦しかったのですが「仕事がもらえるならやるしかない」と考え、がむしゃらに取り組みました。この頃から音楽を仕事として意識するようになり、卒業後は音楽で食べていくと決めました。

決断の際も、不安はありませんでしたね。大学院までクリエイティブなことを学び、この間ずっと、それを生かせるような仕事がしたいと思っていたからです。

神前暁さんとの出会い

音楽の道へと進むにあたって、アニメの音楽、それも主題歌と劇伴の両方を制作していきたいという思いがありました。そこで、音楽制作会社「モナカ」に履歴書を送ったところ採用され、現在も所属しています。

入社当初は、作・編曲家の神前暁さんのアシスタントをしていました。最初に神前さんから、ご自身の何百曲もの楽曲データを渡され、全て聴くように言われました。当時は、毎日電車の中で神前さんの曲ばかり聴いていたことを覚えています。

「良いメロディ」の作り方を教わるという意味で、すでに多くの成功を収めていた神前さんの言葉には説得力がありました。その「正解」をひたすら間近で聴いて、アドバイスをいただきながら吸収していったようなイメージです。

その後、自分でも曲を作り始めて、入社して1年~1年半経った頃から自身で作曲や編曲を担当するようになりました。神前さんは、今でも「第二の父」と思うぐらい尊敬しています。

「Wake Up, Girls!」での独り立ち

アシスタントを卒業してすぐに担当したアニメ「Wake Up, Girls!」は、とても強く印象に残っています。アニメの中のアイドルグループと現実世界の声優ユニットが連動しているプロジェクトだったのですが、キャストの方たちが歌い手として上達していくのに合わせて、どんどん難しい曲にもチャレンジしました。自分自身とても成長できるプロジェクトでしたね。

この時期はまだ自分で作った曲が他の人によってライブなどで歌われることに慣れていませんでした。「Wake Up, Girls!」を担当してプロの作家として楽曲を提供し、実際に歌われることにとても感動しました。この経験を通じて職業作家ならではのやりがい、達成感を得ることができました。

挑戦し続けることが重要

「アイドルマスター」シリーズでは、プロデューサーがチャレンジを許容してくださる方だったこともあり、さまざまなことに挑戦しました。『アンデッド・ダンスロック』では、作詞・作曲、編曲だけでなく、楽器の演奏も全て自分で担当しました。久しぶりにドラムを演奏したのですが、昔と違って体力や筋力が落ちていたので足がつりそうになり、本当に大変でした(笑)。

『オウムアムアに幸運を』という楽曲では、映像の動きに音楽を合わせる「フィルムスコアリング」という手法で制作しています。かなり苦労したのですが、制作陣からも映像と音楽のシンクロ具合が大好評で、うれしかったです。
日々同じような仕事を繰り返すより、自分自身が成長できるようなチャレンジをたくさんしていきたいですね。

日頃の創作活動

創作作業は基本的に自宅で行います。デスクに座ってすぐにアイデアが浮かぶこともありますが、何も出ず考え込んでしまうこともあります。そういう時は、お風呂に入ったり、部屋の中を歩き回ったり、外へ散歩に出ることが多いです。晩酌している時にイメージが浮かぶこともありますが、翌朝ボツにすることも多々あります(笑)。

創作については、担当することになった作品の原作をチェックすることはもちろんのこと、実際に作品の舞台を訪れることも重要と考えていて、コロナ禍前は現地に行っていました。「Wake Up, Girls!」を担当していた時は、舞台の仙台に滞在して創作に励もうとしましたが、観光ばかりで結局何も進まなかったということもありました(笑)。

また、作品の舞台でなくても気分転換を兼ねて都内のビジネスホテルに泊まって作業をすることもあります。最先端のオタクカルチャーを感じるために秋葉原のビジネスホテルに1週間滞在して作業したこともありました。いろいろな街に足を運び、その土地の空気感を味わいながら創作することが好きです。

自宅の“SHUSHI部屋”(アトリエ)です。部屋のテーマを寿司にしています。

歌モノと劇伴の違い

歌モノはある程度作家の個性が出ても良いと思っていますが、劇伴は場合によりそれを抑えた方が良い結果になると考えています。アニメなどの映像作品は、あくまで映像がメインなので、視聴者に音楽を意識させて良い場面と、意識させてはいけない場面があります。後者の場合には時として、自分の作家性や個性をそぎ落とすことも必要です。頭の中で常に”作家性の蛇口”をイメージして、そのひねり具合をどうするのか、バランスを常に考えるようにしています。劇伴は作曲時には使われるシーンが決まっておらず、汎用性が求められることもあります。

歌モノは曲を先に作るケースが多く慣れていますが、詞が先にあるケースも楽しいです。例えば、一番と二番の歌詞で文字数が違うと工夫が必要になるのですが、両方にピタリとハマる曲が作れると手応えを感じますね。

自分は好き嫌いなく、いろいろなジャンルの曲を作ることができると思っています。それは幼い頃に聴いていたラジオでバランスよくさまざまなジャンルの音楽を聴いていたからかもしれません。何をどうすればそのジャンルらしい曲になるのかを分析して特徴を捉えることを心がけています。

気分転換と創作に⽋かせないもの

創作に行き詰まったときは、ドライブに出かけたり、おいしいものを食べながらお酒を飲むことで気分転換をしています。特に昔からラーメンが好きでよく食べに行きます。コロナ禍では外食ができなかったので、自宅で料理をしていました。小籠包やどら焼きなどを作りましたね。簡単などら焼き作りのポイントは、ホットケーキミックスに醤油を入れることです。すると生地も黒っぽくなりますし、黒糖みたいな甘さも出ます。皆さんもぜひ試してください(笑)。

創作に欠かせないものは車です。普段から車で移動することが多く、コロナ禍前はパソコン1台持っていろいろな場所に出かけていました。いろいろな体験を通じ、人生経験を豊かにすることで創作につながるインスピレーションを得られると考えています。

創作活動、気分転換に欠かせない車です。

音楽制作会社モナカとは

仲間意識の強いライバルという関係性かもしれません。アットホームで家族のような関係でありつつ、一番身近なライバルという意識でしょうか。でもそれぞれ得意なことがバラバラなので、同じところで競うというよりは、それぞれの持ち場で活躍する事を目標としています。

著作権についての意識

学生の頃から著作権についての意識は高かったと思います。そのため事務所からJASRACへの入会を勧められた時も、違和感なくすぐに入会を決めました。

JASRACから初めて分配を受けた時はうれしかったですね。それまでは事務所経由でお金をもらっているだけだったので、ボーナスをもらった感覚でした(笑)。著作物使用料の分配とともに明細データが送られて来ますが、カラオケで何回歌われたとか、テレビで何回放送されたとか、本当に細かく書かれていることにも驚きました。創作においても参考になるので助かります。使用された分についてきちんとお金がもらえますし、自分がプロとして社会的に認められた気になれますね。

今後の活動について

今後は海外の人にも届くような作品を手掛けたいです。モナカに所属する作家が担当するゲーム作品がアメリカのゲームショーで評価されていることもあり、自分以外の作家の海外進出が進んでいるので、「自分も海外へ!」と思っています。今は世界中で日本のアニメが受け入れられていますから、そういう視野を持って曲を作りたいですね。もちろん、日本をおろそかにはせず、日本の文化を海外に広める意識を持ち続けたいです。

広川 恵一

作・編曲・作詞家 1987年8月 神奈川県生まれ。東京造形大学大学院卒業。音楽制作会社モナカに所属し、アニメ「Wake Up, Girls!」シリーズ、「アイカツ!」シリーズ、「牙狼<GARO>-VANISHING LINE-」など様々な映像作品の主題歌や劇伴、キャラクターソングを手掛け、上坂すみれ、上田麗奈など多くのアーティストに楽曲を提供。自らもベーシスト、ギタリスト、ドラマーとして演奏に参加するなど幅広く活躍する。