働きながら音大へ編入~ミサでオルガンを弾いたきっかけ

 ラジオ東京に入社した翌年、働きながら国立音楽大学作曲科の第3学年に編入しました。本当は、月謝の安い東京藝術大学に入りたかったのですが、編入制度がなかったので、仕方なく編入ができる私立へ行ったというわけです。そこでは、グレゴリオ聖歌にも詳しい髙田三郎先生に師事しました。

 私の出席率が悪く成績会議で「あいつはダメだ」という話になった時、髙田先生が「ラジオ東京を辞めさせるから」と擁護して下さったそうです。それで、先生から仕事を辞めるように言われました。しかし、当時父は身体の具合が悪く働けなかったので、仕送りをしなければならない。仕事を辞めると収入がなくなりますから、「わかりました、辞めます」と返事はしたものの、仕事は続けていました。それからは、代返を頼んで同じ時間に3つ単位を取ったことも(笑)。ばれなかったのが不思議ですね。

 大学の学費も払わないといけないので、ある時アルバイトを探して学生課に行きました。窓口で掲示を見ていたら、後ろから「蒔田さん」と声をかけてくれる女子学生がいたんです。「わたし、山本と言うんだけど」とおっしゃるその方は、山本直純さん(作曲家)の妹さんでした。彼女は、日曜日にオルガニストのアルバイトをしていたのですが、辞めたくなったので代わりの人を探していたのだそうです。それはもう、願ってもないことですから、喜んで引き受けました。そうして、米軍キャンプにあるチャペルで、ミサのオルガン伴奏をする仕事を紹介してもらったのです。池袋からバスでグラントハイツ(練馬にあった米軍の家族宿舎)のミサに通うことになりました。そこで歌っていた聖歌隊には、その後歌手として有名になる人が何人もいましたよ。

音響効果の仕事~作曲家デビューのきっかけ

 私が放送局に入社した頃、ちょうどテレビ放送が始まりました。お椀で馬の足音を出したり、笛でカラスの鳴き声をやったり、いわゆる擬音から修行をしましたね。そのうち6mmテープが普及してくると、重い録音機を担いで大磯海岸まで行って、波の音を一日中録音したこともありました(笑)。色々な効果音を録音して、擬音ではない実音のライブラリーを作り上げました。

 初めて作曲を担当した「鞍馬天狗」は、長編の連続ドラマでした。回を重ねているうちに音楽がさらに必要になり、ディレクターから、「蒔田、おまえ作曲できるんじゃないか。やってみろ」と言われて書くことになりました。その頃はまだ一介の社員でした。1961年に退社しましたが、放送局の音楽をやらせてもらったことで、楽器はもちろん、指揮など現場で色々な勉強ができました。スタジオのなかで音楽を学んだようなものです。

宇宙の広がりを表現した「ウルトラセブン」

 「ウルトラセブン」の監督を務めた円谷一さんもラジオ東京にいて、よく一緒に仕事をしました。「ウルトラセブン」の時の円谷さんの要求は、「宇宙の広がりというのは、テレビのフレームでは表現できないから、音楽で表現してほしい」というものでした。彼は音楽をよく分かっていて、こちらに制約を作らずイメージのみを伝えてくれました。人の使い方としては最高ですよね。だから私は良い仕事ができたのだと思います。「ウルトラセブンの歌」は、円谷さんが“東 京一”の名前で詞を書いています。渡された原稿は、歌詞がすこし短かったので、「倍くらいほしいな」と言ったら、「忙しくて考える時間がないから、適当にやっておいて」と言われました。だから、何回も「セブン・セブン・セブン」って言っているでしょ(笑)。

 「帰ってきたウルトラマン」では、地球防衛チームのテーマ音楽として、男性コーラスを使った『M-3』、通称「ワンダバ」を作曲しました。一つ前の「ウルトラセブン」の挿入歌『ULTRA SEVEN』に「ワン・ツー・スリー・フォー」とセブンまでカウントする部分があるのですが、監督から「あれをまたやってよ」と言われました。出だしの「ワン」が格好良いと評判だったそうで、どうしようかと悩んだ末、窮余の一策で「ワン」だけを活かし「ワンダバダバ~」とやったのです。後のウルトラシリーズでも、このテーマ音楽が定着しましたので、結果的には良かったですね。前のシリーズと同じことを二度はできないので、後にいけばいくほど難産したものです。

 ウルトラシリーズは今年で放送開始50年。よく現在まで繋がってるなと感心します。熱心なファンがいて、私よりも音楽のことを知っている方がたくさんいますからね。「先生、○○の第〇話のあの音楽は何ですか?」と聞かれても、こちらは憶えていない(笑)。ありがたいですね。

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