布団のなかで聴いた“魔の炎の音楽”

 私は満州で生まれました。父は医者で、40年くらい向こうにいた男だったんです。大きな夕日と地平線、あの壮大さはよく憶えています。

 父がSP盤のコレクションを持っていて、そのなかの音楽を聴いて育ったようなものです。病院の勤めから夜中に帰ってくると、疲れていたときなどにレコードをかけていました。私はふすま越しに、布団のなかでその音楽を聴いていました。隣で一緒に座って聴くことはなかったですね。昔の子供は夜8時になったら寝なさいと言われていました。父が帰ってきて寛ぐのは10時頃ですから、もう寝ていなければいけない。そうして布団のなかで聴いたある音楽に、とても心を掴まれました。「それはなんという曲なのか」と父に聞いたら、「魔の炎の音楽」だと言われて。リヒャルト・ワーグナーの「ワルキューレ」でした。ワルキューレの一番最後、眠らされたブリュンヒルデを守る炎が、どんどん燃え上っていくシーンの音楽です。「魔の炎の音楽ってすごいなぁ」と子供心に想像をたくましくて聴いていました。それが意識にのぼる、最初の音楽体験です。あれは本当に魔術のような音楽でした。

満州から上海、そして日本へ

 小学校へ行く頃にはもう戦争中でしたから、音楽は軍歌の類しかなかったですね。受け持ちの国語の先生が、予科練(海軍飛行予科練習生)を志望していたのですが、腕を怪我して敬礼ができず、入隊できなかった。それで、われわれ生徒が「予科練の歌」(「若鷲の歌」)を歌わされたことを憶えています(笑)。

 学校で音楽に触れる機会はほとんどなかったのですが、その頃、2~3カ月くらいピアノを教えてもらったことがありました。私からリクエストしたのだと思います。女性の音楽の先生がいらして、マンツーマンでバイエルを習いました。しかし、それも戦争が終わって途切れてしまいました。

 終戦後、父は蒋介石が接収した大きな工場の診療室で、責任者として抑留されていました。そのうち、毛沢東が攻めてくるということで、上海へ移ることになりました。日本人では、うちと会計の専門家のご家族が転勤になって。もう一つのご家族は天津に行かれましたが、その後どうなったのかはわかりません。上海にいた日本人は30人くらいで、学校もありませんでした。英語や算数を勉強したり、みんなで歌を歌ったりしていました。大人は皆何かの専門家ですから、周りにいた日本人の大人が教えてくれました。教科書にはとらわれない、自由で素晴らしい授業だったと思います。その後、上海も危なくなり1949年に日本に帰ってきました。上海にいたのは1年ほどでしたね。

広島で出会ったグレゴリオ聖歌とオルガン

 14歳で母の出身地だった広島に戻りました。終戦の時、広島は日本で一番大変な場所でしたが、父の故郷は元々だれも縁者がいなかったので、母の故郷へ転がり込んだわけです。母の故郷は、中国山脈を越えたところでしたので、原爆の影響は受けませんでした。そのうち、広島市内も少しずつ生活ができるようになり、市内の高校を卒業した後、ちょうどその年に創立したエリザベト音楽短期大学の作曲科へ進学しました。当時の作曲科は、試験といっても何か一曲書いて出せばいいということでしたので、短い舞曲風のピアノ曲を書いて、たしか「マズルカ」という題をつけて提出しました。市内の高校に転校する前にいた田舎の高校には、音楽室にピアノと簡単な楽譜がありました。一級上にピアノの上手い友人がいて、ヨハン・シュトラウスのワルツを連弾して遊んでいました。作曲の勉強は何もしていませんでしたが、そうした経験が三拍子の「マズルカ」を書く縁(よすが)になったのかもしれません。

 エリザベトではヨーロッパ音楽を基礎の基礎から勉強しようと思い、宗教音楽も専攻しました。そこで、グレゴリオ聖歌を学びました。歴史が長く奥が深いですから、これは並大抵の努力では吸収しきれないなと思いましたね。

 私が入学した頃、広島市に世界平和記念聖堂が建設されて、ベートーヴェンを輩出したボン市(ドイツ)からオルガンが寄贈されたのです。その組み立てを手伝ったことがきっかけで、オルガンにのめり込むことになりました。

 師事した安部幸明先生と市場幸介先生は、月に1度、東京からおいでになって授業をしてくださいました。卒業後、東京へ出る際にもお力を貸してくださったんです。当時、父は「音楽なんかやっても食っていけるわけがない」と反対していたのですが、最後には折れてくれました。

ラジオ東京へ音響効果マンとして入社

 エリザベトを卒業した後、上京してラジオ東京(現TBS)に入社しました。音響効果マンの入社試験は、色々と音に関する課題が出ます。そのなかで、何パターンかのメトロノームのリズムにあわせて、拍の間に手を叩くという課題がありました。そのなかに、つり合いが取れていなくて、どうやっても手の叩きようがない変則リズムがあったのです。「これはわざとメトロノームを傾けているんですか」と聞いたら、試験官がそわそわし始めて、「いや、そんなことはないんだ。壊れてないものを持ってくる」と。壊れていたのでリズムが不規則だったんですね。それで、「若いくせに生意気だけど、見所がある」と思われたみたいです。他大学へ編入するつもりでしたから、アルバイトで受けたのですが、「本気になって音響効果をやらないか」という声がかかったのです。それも面白いと思い、社員として入社しました。

  • TOP
  • 1
  • 2
  • 3

作家で聴く音楽バックナンバーはこちら