大学は、本を読んで、心理学と音楽はだいぶ関係しているなと思い、東京大学文学部哲学科(心理学専攻)を受けました。もし作曲家になれなかったとしても、音楽評論家か学者にはなれるだろうとも思っていました。実際に入ってみたら、実験心理学中心なんですよ。だから、性格心理学とか社会心理学ではなくて、専ら感覚、知覚、行動の講義が中心でした。
入学してすぐに、團伊玖磨さんのところにクラシックの作曲を習いに行きました。知り合いが團さんを紹介してくれて、電話したら「教えます」とおっしゃってくれたんです。初歩の初歩を習ったんですが、「作曲家になるんだ」という気持ちでいろいろな音楽を聴いていましたから、勉強になりました。卒業間際まで、作曲家になるか研究室に残るか迷いましたが、結局大学院に籍を置くことにしました。そのときに諸井三郎さんにも習いに行って、純粋対位法を教えてもらいました。これをやっておけば何かの役に立つだろうと思って学びましたが、実際の作曲というのは、基礎理論の学習とは少し違うところがありましたね。
その間に父親の看病のため、名古屋に帰ることになり、しばらく名古屋から東京に通って勉強していました。ずっと映画音楽を作曲したいと思っていましたので、日本映画もよく観に行きました。その頃の音楽はレベルが高いとは言えませんでしたね。これなら私だってできるよと、ちょっと自信みたいなのを得て、中部日本放送(CBC)のラジオ局の音楽課長に「自分は音楽の勉強をしていて、作曲家になりたいという思いでやっていますので、よろしくお願いします」と売り込みに行きました。何回も通っているうちに、ある日突然、ラジオドラマ「アトムボーイ」の台本を渡されて、これをやってくれというお話をもらいました。最初はあまりうまくいきませんでしたが、二本目は上出来で、その後仕事をたくさんいただくようになりました。
しばらくして、自分は名古屋で終わることはできないと思いまして、当時、新東宝でプロデューサー補をやっていた宮川一郎君の自宅を訪問しました。宮川君とは、学生時代も下宿が近くてよく遊びに行っていたんですね。それで、私の音楽を聴いたこともない彼に「実は映画音楽の作曲家になりたいんだ」と言ったら、「ともかく東京へ出て来いよ。それじゃないと話にならん」と言ってくれたので、上京する決心がついたのです。宮川君は後にテレビドラマ「水戸黄門」のシナリオを書いた方です。