作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー
渡辺 宙明 CHUMEI WATANABE

プロフィール
1925年8月19日生まれ。愛知県名古屋市出身。東京大学文学部哲学科(心理学専攻)卒業。在学中に映画音楽家、作曲家になることを決意して、作曲を團伊玖磨、諸井三郎らに師事。後にジャズの理論を渡辺貞夫に学ぶ。
1953年に中部日本放送(CBC)のラジオドラマ「アトムボーイ」の音楽でデビュー。新東宝、大映、日活などで100本以上の映画音楽を生み出し、TVドラマでも活躍。
1972年の「人造人間キカイダー」、「マジンガーZ」との出会いから、特撮ヒーローやアニメ作品が作曲生活の中心となり、現在に至る。
今年で90歳を迎え、卒寿記念に特撮・アニメ主題歌を収録した4枚組CD-BOX「CHUMEI 90 SONGS」をリリースしたほか、「渡辺宙明卒寿記念コンサート」を開催。
1958年8月からJASRACメンバー。
2014年11月、JASRAC永年正会員表彰。
 
<主な作品>
【映画】
■東海道四谷怪談
■喜劇 にっぽんのお婆あちゃん
■忍びの者
■黒の奔流

【テレビドラマ】
■憂愁平野
■雨のひまわり
■ある勇気の記録

【テレビアニメ】
■マジンガーZ
■野球狂の詩

【テレビ特撮】
■人造人間キカイダー
■秘密戦隊ゴレンジャー
■太陽戦隊サンバルカン
■バトルフィーバーJ
■宇宙刑事シリーズ

【ラジオドラマ】
■流星機ガクセイバー

【ビデオアニメ】
■戦え!!イクサー1
■レイナ剣狼伝説

【記録映画】
■花ひらく日本万国博 EXPO’70

【TV・CM】
■ポーラ化粧品
■三菱コルト
■麒麟戦隊アミノンジャー

【ゲーム】
■スーパーロボット大戦α

【合唱曲】
■恐山


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映画音楽の作曲家になりたい
中学1年生のときに同級生がハーモニカを学校に持って来て、休憩時間に演奏していたのを初めて聴いたのが私の音楽との出会いでした。昔のハーモニカはベースといって、低音部は舌で押さえたり離したりしながら伴奏を付けて演奏していたので、「あら、いいもんだなぁ」と思って、早速ハーモニカを買いに日本橋の三越まで行きました。私は愛知県の名古屋出身ですが、父親の仕事の関係で一時期東京にいたんです。教則本も売っていましたから、独学で勉強しました。ハーモニカの楽譜の原理の一部は五線譜と同じですが、ドは1で、ソは5というように階名が数字で表されていたので、すぐに吹けるようになったんですね。それで学校の音楽の先生が、とにかく早く階名(移動ド)で読むようにと読譜について教えてくれたんです。それで約1週間で各キーをマスターできました。
だんだんと欲が出てくると、オーストリア映画「未完成交響楽」やアメリカ映画「オーケストラの少女」に刺激を受けて、映画音楽の作曲家になりたいと思うようになりました。特に、アメリカ映画は全盛期でしたから、喜劇の映画でもジャズハーモニーを使って、音楽がものすごく豪華だったんです。
ある時、父親から「作曲家になるならピアノを弾かなきゃだめじゃないか」と言われ、ピアノを習いに行きました。平井康三郎先生が通信教育をやっているという話を聞きつけて、手紙で基礎だけを教わったりもしました。学校の勉強が忙しくなると、母親から「そんなにピアノばかり弾いていてはだめ」と言われ、非常に苦しい状態が続きましたね。父親は、わりと寛大でしたが、「作曲をやるにしても食べていけるかどうかも分からないから、普通の大学に入れ」と言われて、旧制高等学校に入学しました。文系だと徴兵がありましたから、技術の方に行くために理系に進みました。でも、すぐに太平洋戦争が始まって、学徒動員で工場に出勤しなければならなくなったので、学校の授業が一切なくなっちゃったんです。終戦後、大慌てで残りの授業を兵舎の跡地で受けました。その間も夢中で音楽に取り組んでいたので、授業はうわの空でしたが、なんとか卒業できました。
團伊玖磨さん、諸井三郎さんに師事し、クラシックの基礎を学ぶ
大学は、本を読んで、心理学と音楽はだいぶ関係しているなと思い、東京大学文学部哲学科(心理学専攻)を受けました。もし作曲家になれなかったとしても、音楽評論家か学者にはなれるだろうとも思っていました。実際に入ってみたら、実験心理学中心なんですよ。だから、性格心理学とか社会心理学ではなくて、専ら感覚、知覚、行動の講義が中心でした。
入学してすぐに、團伊玖磨さんのところにクラシックの作曲を習いに行きました。知り合いが團さんを紹介してくれて、電話したら「教えます」とおっしゃってくれたんです。初歩の初歩を習ったんですが、「作曲家になるんだ」という気持ちでいろいろな音楽を聴いていましたから、勉強になりました。卒業間際まで、作曲家になるか研究室に残るか迷いましたが、結局大学院に籍を置くことにしました。そのときに諸井三郎さんにも習いに行って、純粋対位法を教えてもらいました。これをやっておけば何かの役に立つだろうと思って学びましたが、実際の作曲というのは、基礎理論の学習とは少し違うところがありましたね。
その間に父親の看病のため、名古屋に帰ることになり、しばらく名古屋から東京に通って勉強していました。ずっと映画音楽を作曲したいと思っていましたので、日本映画もよく観に行きました。その頃の音楽はレベルが高いとは言えませんでしたね。これなら私だってできるよと、ちょっと自信みたいなのを得て、中部日本放送(CBC)のラジオ局の音楽課長に「自分は音楽の勉強をしていて、作曲家になりたいという思いでやっていますので、よろしくお願いします」と売り込みに行きました。何回も通っているうちに、ある日突然、ラジオドラマ「アトムボーイ」の台本を渡されて、これをやってくれというお話をもらいました。最初はあまりうまくいきませんでしたが、二本目は上出来で、その後仕事をたくさんいただくようになりました。
しばらくして、自分は名古屋で終わることはできないと思いまして、当時、新東宝でプロデューサー補をやっていた宮川一郎君の自宅を訪問しました。宮川君とは、学生時代も下宿が近くてよく遊びに行っていたんですね。それで、私の音楽を聴いたこともない彼に「実は映画音楽の作曲家になりたいんだ」と言ったら、「ともかく東京へ出て来いよ。それじゃないと話にならん」と言ってくれたので、上京する決心がついたのです。宮川君は後にテレビドラマ「水戸黄門」のシナリオを書いた方です。
渡辺貞夫さんのジャズ理論の講義により作風が豊かになった
上京して、映画、テレビドラマ、CMの音楽を数多く手掛けるようになりましたが、クラシックの音楽理論だけじゃやっぱりだめだと思っていたときに、アメリカ留学から帰ってきた渡辺貞夫さんが、自宅でジャズを教えているという話を聞いて講義を受けに行きました。彼はアメリカのバークリー音楽院で習ったジャズの理論をまとめて講義していました。5〜6人いた参加者の中で、強く記憶に残っているのは、鈴木宏昌さんというピアニスト兼作曲家でした。ピアノ演奏ですぐに役立つコードネームとコード一覧表を作って見せてくれましたが、すごく勉強熱心な方でした。渡辺貞夫さんが講義したジャズの音楽理論というのは、目から鱗が落ちるくらい本当に良かった。クラシックの和声学だけでは、やっぱり変な癖がついてしまうんですが、ジャズでは音の使い方の許容範囲が広いですから、作風が豊かになりましたね。

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