小学2年生でピアノを習い始めてからクラシックが好きになり、伯父が父に貸してくれたベートーベン全集のレコードは、擦り減るほど聴きました。ベートーベンの交響曲なら、今この場で譜面に書けるかもしれません。でも開業医の一人息子だったので、当然医者になるものと思っていたんです。それが中学2年の時に、親に頼み込んで行かせてもらった「バイロイト・ワーグナー」(*)で、ピエール・ブーレーズ指揮の「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞して、あまりの感動に、音楽家になってこれぐらいの曲を書きたいと思うようになりました。高校3年の夏、芸大(東京藝術大学)を受験したいと両親に打ち明けたところ、驚きつつも父が「実は僕も、新聞記者になりたかったんや。君はそんなに作曲家になりたいんか」と聞くので「なりたい」と。最後は「二浪までは許したるから、やってみろ。その代り入ったからには日本一の作曲家になれよ」と言って認めてくれたんです。
*1967年に大阪で開催された「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」。ドイツの「バイロイト音楽祭」の引っ越し公演として行われた。
一浪して入った芸大の作曲科では、「大地讃頌」等で有名な佐藤眞先生に師事して、先生と飲んでは先生の門下生にイタズラ電話を掛けたりとか、そんなことばかりしてました(笑)。卒業後、このまま作曲家になってもうまくいかないような気がして、ビクター音楽産業に入社したんですが、配属は制作ではなく宣伝部。でも性格も向いていたし、レコードは出せば売れる時代で、楽しかったですね。サラリーマンでうまくいきそうになっていたとき、父が体を壊して。亡くなる前に「お前をサラリーマンにするために、医者にするのをあきらめたわけやない。作曲家になるんちゃうんか」と言われて、はっとしました。亡くなった3か月後くらいには辞表を出して、その後バークリー音楽学院に留学しました。それまで、仕事でどんなに遅くなっても必ず1時間は家でピアノを弾いていたのでピアノの腕は落ちていなかったのですが、音楽の勉強はし直さないといけないと思って。バークリーを選んだのは、デューク・エリントンの愛弟子のハーブ・ポメロイさんという先生の授業を受けたかったからで、その授業で最高評価をいただいたところで帰国して、作曲家としての活動を始めました。 |