作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー
田中公平 Kouhei Tanaka

【プロフィール】
1954年大阪生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業後、ビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント)に3年間勤務。その後、米国ボストンのバークリー音楽学院に留学。帰国後、本格的に作・編曲活動を始める。人気アニメ「ワンピース」(フジテレビ系)のBGM及びオープニング(「ウィーアー!」「ウィーゴー!」)、「ジョジョの奇妙な冒険」(MXTV他)の第一部オープニング「ジョジョ〜その血の運命〜」をはじめとして、アニメやゲームの音楽を多数手掛ける。また、ゲーム「サクラ大戦」では主題歌“ゲキテイ”こと「檄!帝国華撃団」が大ヒット。同ゲームから派生したアニメ、舞台等の音楽も手掛け、その数はボーカル作品だけで500曲を超える。
近年は作曲活動のほか歌手、演奏者として国内外でライブも行っている。
2002年、新世紀東京国際アニメフェア21でアニメーション・オブ・ザ・イヤー音楽賞を受賞(受賞作品:「ワンピース」)。2003年、第17回 日本ゴールドディスク大賞アニメーション・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞(受賞作品『サクラ大戦』、対象作品『サクラ大戦4 〜恋せよ乙女〜 全曲集 檄!帝〜 最終章』)
1984年11月からJASRACメンバー。

公式ブログ:田中公平のブログMy Quest for Beauty

作品情報:所属事務所「イマジン」公式サイト
インタビューの一部をニコニコ動画で公開中!田中さんが出演した「THE JASRAC SHOW!」の動画もあります
ニコニコ動画 JASRACちゃんねる
【CD情報】
映画「ONE PIECE FILM Z」オリジナルサウンドトラック
SMJ/SICP-3758
©尾田栄一郎/2012「ワンピース」製作委員会
※コピー・転載厳禁
プレゼント
アンケートにお答えいただいた方の中から抽選で5名様に、田中さんが2012年冬のコミケで販売したCD「PIANO・ピアノ・ぴあの」を差し上げます。直筆サイン入りです!
田中さんのピアノ独奏曲「I scream」や田中さんが歌う「サクラ大戦」ソングとそのインスト版などを収録。ピアニート侯爵と松永貴志さんがピアノ演奏で参加しています。
※アンケートは終了しました。
たくさんのご応募ありがとうございました。
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医者の息子が作曲家になるまで
小学2年生でピアノを習い始めてからクラシックが好きになり、伯父が父に貸してくれたベートーベン全集のレコードは、擦り減るほど聴きました。ベートーベンの交響曲なら、今この場で譜面に書けるかもしれません。でも開業医の一人息子だったので、当然医者になるものと思っていたんです。それが中学2年の時に、親に頼み込んで行かせてもらった「バイロイト・ワーグナー」(*)で、ピエール・ブーレーズ指揮の「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞して、あまりの感動に、音楽家になってこれぐらいの曲を書きたいと思うようになりました。高校3年の夏、芸大(東京藝術大学)を受験したいと両親に打ち明けたところ、驚きつつも父が「実は僕も、新聞記者になりたかったんや。君はそんなに作曲家になりたいんか」と聞くので「なりたい」と。最後は「二浪までは許したるから、やってみろ。その代り入ったからには日本一の作曲家になれよ」と言って認めてくれたんです。

*1967年に大阪で開催された「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」。ドイツの「バイロイト音楽祭」の引っ越し公演として行われた。

一浪して入った芸大の作曲科では、「大地讃頌」等で有名な佐藤眞先生に師事して、先生と飲んでは先生の門下生にイタズラ電話を掛けたりとか、そんなことばかりしてました(笑)。卒業後、このまま作曲家になってもうまくいかないような気がして、ビクター音楽産業に入社したんですが、配属は制作ではなく宣伝部。でも性格も向いていたし、レコードは出せば売れる時代で、楽しかったですね。サラリーマンでうまくいきそうになっていたとき、父が体を壊して。亡くなる前に「お前をサラリーマンにするために、医者にするのをあきらめたわけやない。作曲家になるんちゃうんか」と言われて、はっとしました。亡くなった3か月後くらいには辞表を出して、その後バークリー音楽学院に留学しました。それまで、仕事でどんなに遅くなっても必ず1時間は家でピアノを弾いていたのでピアノの腕は落ちていなかったのですが、音楽の勉強はし直さないといけないと思って。バークリーを選んだのは、デューク・エリントンの愛弟子のハーブ・ポメロイさんという先生の授業を受けたかったからで、その授業で最高評価をいただいたところで帰国して、作曲家としての活動を始めました。

求められるクオリティ以上の仕事をすれば、必ず次につながる
作曲家になったものの仕事は全くなく、バーのラウンジで弾き語りのバイトなどをしていたとき、ビクター時代に知り合った今の事務所の社長が声を掛けてくれたんです。それで少しづつ、カラオケのコピーやCMの仕事などをしながら レコーディング技術を学び、ディレクターに顔を覚えてもらい、あるときコロムビアのディレクターから「じゃあ一回やってみる?」と言われて初めて自分の名前を出してやった仕事がアニメの曲だったんですよ。山野さと子さん歌、菊池俊輔先生作曲の「星の涙」(「わが青春のアルカディア 無限軌道SSX」の挿入歌)のアレンジです。その人から少しずつ仕事を振ってもらえるようになって、それを見ていた別のディレクターが「キン肉マン」の仕事をくれて、さらに「キン肉マンの編曲もよかったね」って持ってきてくれたのが「ドラゴンボール」の主題歌のアレンジです。同じ頃にビクターのディレクターが「公平君面白いね」って持ってきてくれた仕事が、初めての劇伴の「夢の星のボタンノーズ」です。依頼していた作曲家にドタキャンされて、録音日の1週間ぐらい前に、「オーケストラで70曲ぐらいあるけどやらない?」って。「わかりました」って言って、3日半で70曲書いて、打ち込みまでしていきました。びっくりされましたね。その仕事を見ていたビクターの別の人がくれたのが「トップをねらえ!」で、その人が紹介してくれたのが広井王子さんなんですよ。彼と始めたのが「サクラ大戦」。一つの仕事が次につながって、どんどん広がっていった感じです。

ですから、若手の人にはいつも言ってるんですが、はじめは条件のよくない仕事ばかり来るけど、そこで求められるクオリティ以上のものを書いておけば、誰か見ている人がいるから、必ず次につながる。余計なことをしたほうがいいんです。うちの事務所のある若手作家は、たとえば劇伴を20曲くらい依頼されると、40曲ぐらい書いていったりするんですよ、サービスで。それはちょっとやりすぎだけど(笑)。それとか、いつ出るか分からない新しい作品の主題歌を先に作ってみるとかね。有り余ったパワーをちゃんとそういうところに向けている人ほど、生き残っていくと思います。
私も若い時は、むちゃくちゃ書いてましたね。一番ひどかったのは、3年半休みなし。作曲しない日は営業です。社長も営業してくれますけど、本人が行ったほうが絶対いい。昔のレコード会社は入りやすかったので、どこでも入って行って、「作曲家のご用はございませんか〜」って、御用聞きみたいに(笑)。大晦日も正月も仕事してましたね。

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