作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー

角松 敏生 Toshiki Kadomatsu

プロフィール
シンガーソングライター。1960年生まれ。大学在学中の1981年6月に『YOKOHAMA Twilight Time』でデビュー。2011年にデビュー30周年を迎える。1986年発売の『TOUCH AND GO』、1988年発売の『Before The Daylight〜is the most darkness moment in a day』がそれぞれ第28回、第30回の日本レコード大賞優秀アルバム賞を受賞するなどアーティストとして活躍する一方、1983年に杏里の『悲しみがとまらない』をプロデュースしてヒットさせ、プロデューサーとしても注目を集める。1988年、中山美穂に提供した『You're My Only Shinin' Star』が大ヒット。1993年1月にアーティスト・角松敏生としての活動の“凍結”を宣言するが、凍結期間中も他のアーティストのプロデュースなどを手がけるとともに、覆面バンド「AGHARTA」を結成し『ILE AIYE〜WAになっておどろう』(ペンネームは長万部太郎)を発表。この曲はNHK「みんなのうた」で放送され話題になり、長野冬季オリンピックのイメージソングにも採用された。活動凍結から5年後の1998年5月に“解凍”し、アーティスト活動を再開。その後はほぼ毎年アルバムをリリースし、コンサート活動も精力的に行っている。コンサートで『Take You to the Sky High』が演奏されるとファンが一斉に紙飛行機を飛ばすのが定番になっている。
2011年4月に3枚目のベストアルバムとなる『1998〜2010』をリリースし、6月にデビュー30周年記念コンサートを横浜アリーナで開催予定。

1996年9月よりJASRACメンバー。
角松敏生さん公式サイト

主な作品
アニメ・テレビ番組
『Citylights Dandy』
(BVCL-117/アリオラジャパン/2010.8.4発売)
このアルバムを5.1chサラウンドでリミックスした高音質版とハイビジョンで撮影した東京の夜景を収録したブルーレイ版も発売中。
(BVXL-5/2010.9.22発売)
『1998〜2010』
(BVCL-203〜204/アリオラジャパン/2011.4.27発売予定)
1998年から2010年までにリリースした楽曲からセレクトした29曲に新曲を加えた計30曲を収録。
アニメ・テレビ番組
『TOSHIKI KADOMATSU Performance 2009 "NO TURNS" 2009.11.07 NHK HALL』
(DVD:BVBL-48〜49、ブルーレイ:BVXL-8/アリオラジャパン/2010.11.24発売)
2009年11月7日にNHKホールで開催されたコンサートの模様を完全収録。
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プロデュースの喜びは職人の喜び
杏里さんをプロデュースすることになった時は、ちょうど彼女が『CAT’S EYE』でブレイクした直後だったので、失敗できないってプレッシャーがありました。でも、僕自身には『CAT’S EYE』を超える楽曲を作り出せないと思ったんです。それで、ある意味これが本当のプロデュースだと思うんですが、“この作家の作品は、これからどんどん脚光を浴びるのでは…”と注目していた作家の人に曲と詞のイメージを具体的に伝えて作ってもらい、自分がまとめるという方法をとったんです。曲はモータウン風に、詞はリアルなものにしたかったので、友達に彼氏を取られちゃったという人から聞いた話を伝えて。その作家が、林哲司さん(作曲)と康珍化さん(作詞)です。できた曲に僕がアレンジを加え、スタジオミュージシャンをコントロールしてできたのが『悲しみがとまらない』です。これが売れて、ほっとしました(笑)。セールス的な部分はクリアしたので、この曲が入った『Timely!!』というアルバムは自分が作詞作曲した曲も入れてマニアックに作りましたね。
プロデュースというのは、責任感の持ち方が違います。自己表現して認められる喜びより、もう一歩大人なような。自分で表現するのがアーティストならば、プロデュースするのは職人かな。僕はアーティストも職人も両方兼ね備えていたいと思っています。それぞれに別の満足感がありますから。
「やったぁ!」がなかった大ヒット
中山美穂さんへの楽曲提供は彼女自身からのオファーでした。当時彼女はまだ10代だったので、彼女を大人っぽくさせようと思って曲作りをしましたが、『You’re My Only Shinin’ Star』はアルバムに提供した4曲の中では一番わかりやすく作ったものでした。ちょうど自分のレコーディングでニューヨークにいて、オフの日にギターを買ってホテルの部屋で弾いて作ったんですが、メロディは15分くらい、詞を含めても1時間くらいでできちゃった。そんな風に自然に作ったものがあそこまで売れるとは思いませんでした。僕はニューヨークで最先端の音楽を追うのに夢中だったので日本のヒットチャートに興味はなかった。だから「やったぁ!」ってな感じで、成功に浮かれてた記憶がないんですよね。その頃からすでに商業的な部分に興味がなかったのかもしれません。しかし、大切なことは、中山美穂さんがこの楽曲を気に入ってくれて、大切にしてくれたこと。それがヒットに繋がったのだと思いますので、本当に感謝しています。

結果としてこういう成功はあったものの、当時は常に自分の新しい音楽のことばかり考えていました。事務所の方針でテレビにも出ませんでしたし、僕自身もテレビでアイドルのように振る舞うことに興味がなかった。それでも僕の音楽を聴いてくれる人が定着して増えてくれたのはありがたかったですね。
恵まれた状況の中での閉塞感、そして活動“凍結”
90年にはロサンゼルスに居を移して、2枚目のアルバムのリベンジのような感じで、ギタリストのラリー・カールトンやピアニストのジョー・サンプルなど、さらに凄腕のミュージシャンたちに参加してもらってレコーディングしたんですが、充実感ありましたね。贅沢な作品でした。ところが、ちょうど10年くらいやってきたところで、なんでも好きなことができる恵まれた状況にあって、かえって焦燥感というか、閉塞感みたいなものが溜まっていったんです。アルバム出してツアーしてっていうことに行き詰まっていた部分もあったんでしょうね。そんなときプライベートでしんどいことがあって自分の根幹の部分で揺らいでしまって、歌うこと自体が嫌になってしまった。それで音楽をやめようと思ったんです。事務所の考えもあって引退ではなく凍結ということにして。凍結前の日本武道館2Days公演を終えた後は肩の荷が下りた気がしました。
多忙だった“凍結”期間
凍結後は喫茶店をやろうと思ってたんです、本気で(笑)。でも武道館公演の映像作品の編集に関わったことがきっかけで映像制作に興味を持ち、事務所の社長と映像制作の会社を作りました。そこで映像制作の技術を学び、それまでの自分の曲のイメージビデオを作ってファンクラブで販売したりしました。その時の経験は今日まで生きていて、映像制作チームと一緒に作業ができるくらいのノウハウを持てました。
そんなことをしながらも、世間的には仕事をしていないと思われていたので、プロデュースの話が来るようになりました。最初は断ったんですが、一応どんな人ですかって聞いたら、東京パフォーマンスドールで篠原涼子さんと同期だった米光美保さんというとても歌のうまい人で。歌のうまい方には弱いんですよね…。それを受けちゃったのが運の尽きでした(笑)。続けて2枚目もお願いしますってことになって。その合間に今度はエイベックスの松浦勝人さん(現エイベックス・グループ・ホールディングス社長)が何かやりましょうって事務所にやってきて、VOCALANDというプロジェクトを一緒に始めました。こんな調子だったので、凍結前は1〜2年でアルバム1枚というペースだったのに、凍結期間の5年間でアルバムを10枚作りました。ずっとスタジオにこもってて、お前、凍結してないじゃないか!みたいな感じ(笑)。

でもその時期というのは録音機材や制作環境が急速に発展した時でもあったので、裏方でその進化をリアルタイムで学べ、活動を再開したときブランクを感じずにすみました。コーラスもしていたので喉も前より強くなってた。結果的にはプロデュースの仕事をしていて良かったんです。

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