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音楽を始めたのは小学校4、5年生の時。8歳年上の兄がギターを弾いているのを見て、自分も見よう見まねで始めました。ある程度弾けるようになった頃、こっそり学校にギターを持って行って休み時間に弾いたら、みんなが「すごい」って集まってきて。それまでの僕はぜんそく持ちで体が弱くいじめられっ子だったんですが、その日を境にぱったりといじめがなくなりました。人と違うことを自己表現すると、こんなにも人の見る目が変わるものなんだって実感しましたね。不思議なことにそれ以来ぜんそくも出なくなったんです。6年生の時には数人でバンドの真似事を始めて、学校の謝恩会で発表したりもしました。それでそのまま中学、高校とバンドをやるようになりました。
最初に憧れたのはビートルズでした。自分たちが作った曲を自分たちで演奏するというスタイルがかっこいいなと思ったんです。そのあと、「はっぴいえんどは日本のビートルズだ」という音楽雑誌のキャッチコピーに惹かれてはっぴいえんどを聴いた時、衝撃を受けました。日本語でこんなことができるんだって。それまでロック、いわゆる洋楽的なものは英語でやるもので、日本語はハマリが悪いと思っていましたから。それで中学3年の頃には自分でも日本語のオリジナル曲を作るようになりました。小学生の多感な時期に、日本のポップスの創成期をなしたような音楽に出会ったことが、この道に進むことに一番大きく影響したかもしれません。 |
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高校生の頃にはバンドコンテストにも出るようになって、いいところまで残ったりもしましたが、プロになろうという意識はなくて、自分たちの音楽のクオリティを納得いくところまで高めたくてやっていた感じです。デビューのきっかけは、大学の音楽サークルでバンドをやっていた時、先輩がプロデビューする歌手のバックバンドの仕事を持ってきたんです。そのときのプロデューサーが「コンテストに出してやるからデモテープ録ってこい」って言うので、お金を出してもらってスタジオでレコーディングができるって喜んで録音して、コンテストに出ましたが落ちました(笑)。初めから期待はしていませんでした。自分が聴いてきた音楽のレベルには到底達していないと自分自身わかっていたし、ただそこに近いものをやりたかっただけだったので。ところが、その落ちた中から素材を探していた別のプロデューサーが僕の曲を見つけて、「レコード出さないか」と直接電話をかけてきた。それで僕は、ああ、はい、とか言っているうちにプロになっちゃった(笑)。一応うれしいし、周りの人は応援してくれるんですが、心の中では狐につままれたような感じでしたね。 |
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デビューアルバムのレコーディングでいきなり、村上‘ポンタ’秀一さんとか後藤次利さんとか、中学、高校時代あこがれて聴いていたミュージシャンが参加してくださって、鳴り物入りでデビューしたんですが、自分の力不足を痛感することになりました。プロのミュージシャンの演奏に自分の歌が乗ったとき、なんて貧弱な歌なんだろうって。そこからボーカルコンプレックスが始まりました。2枚目のアルバムはロサンゼルスで録音、ジョン・ロビンソン、アル・マッケイ、ルイス・ジョンソンなど錚々(そうそう)たるミュージシャンが参加、なんていうすごい環境でレコーディングさせてもらったんですが、その分、「それで自分はこの歌(=歌唱力)かよ」って思いました。歌もギターも中途半端で自分のやりたいこともうまく伝えられない。1枚目、2枚目はそういう苦しさがありました。それでも幸いだったのが、全部自分で書いた曲を使ってもらえたことと、本物の現場でアレンジメントもエンジニアリングも一気に勉強できたこと。トータルにプロデュースしていくということが自分の中で目標になって、そのためにはスキルや知識が必要だからそれを覚える努力をしよう、歌の下手さも克服しよう、そういう思いを持つことができました。デビュー前は斜に構えていた部分もあったんですが、プロになってからは猛勉強でしたね。
結局、この2枚のアルバムはセールス的には成功しなかった。その後、方向性の相違から事務所を移籍しました。新しい事務所の社長は好きなようにやらせてくれたので、3枚目のアルバムは満を持して自分でトータルプロデュースしました。それまでレコード会社のディレクターに任せていたボーカルディレクションも自分でやって、とことん自分が気に入る、その時できる最高のものを作ろうと思ってできたのが『ON THE CITY SHORE』です。このアルバムが初めてオリコンの21位に入ったんです。このことで、自分の信念がステップアップして、自信になりましたね。 |
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