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秋元康さんとは20年ぐらい前にとんねるずのお仕事でご一緒したのが最初ですが、その時はいや〜な感じの仕事の流れになっちゃって。僕はもっとコミュニケーションをとって練り上げていきたいのに秋元さんは忙しいから要点を指示するだけでスタジオに来ないとか、そういうのが理解できなくて、初対面で秋元さんに文句を言うような出会いだったんです。秋元さんも「何を怒ってるんだ、仕事決まったんだからいいじゃん」みたいな感じでしたけど、作家でそういうふうに言ってくる人もいなかったみたいで、後日電話できちんと話を聞いてくれました。そのとき、「僕は仕事だからとか思ってやってないから、迷惑かけちゃうかもしれないけどそれでもよければ一生懸命やります」っていう話をしたんです。で、十数年たって、秋元さん、それを覚えてたんでしょうね。「AKB48っていう全く仕事にならないのがあるけど、やるよね、当然」みたいな(笑)。AKBは面白かったし、一生懸命だし、「やりますよ」と。 |
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最初は本当にお金にならなかったですよ。AKBの公演のたびに新しい曲を作っていて、曲が足らなくなって他のところに出していた曲を戻してもらったり。公演の出だしの曲は大事だからってイントロを20回ぐらい直しても、CDにはならない。これアレンジ代で計算すると…。でも秋元さんは「覚えてる?俺に言ったよね、あの日」みたいな。すごいこと言っちゃった(笑)。だけど売れる、売れないじゃなくて…がんばっても売れないものってあるんですよ。タイミングもあるし、手間を掛けても掛け損みたいなこともある。だけどそのとき自分が何を迷って、どういう答えを出したかっていうことに意味があるんです。“一番届けたい気持ちは何か”もそれではっきりしてくるんです。 たとえば、『Everyday、カチューシャ』のときに、本当はもうちょっと家族愛みたいな曲にしたくて、明るいイントロは絶対嫌だったんですけど、秋元さんから「イントロをもっと明るく」と言われて。いや、楽しい曲でもなかったんだけど…と非常に迷って、何度も何度もやり直して。違うアレンジャーに振りたくなりましたよ、あの時は。明るい曲ならもっとうまい作家がいますよって。そしたら、そうじゃなくてヨシマサがやる必要があるんだって言われて。僕が煮詰まって、脂が浮いてくるのを見たいらしんですよ、秋元さんは。で、アクをとるのが大好きなんです(笑)。で、出来上がったあと、AKBの役割みたいなことを考えたときに、ちょうど震災の後だったので、そこに明るいイントロが非常に良かった。僕があの曲に必要なイントロだと思ってたのとはまた違う、AKBが楽曲を通して世の中に届けたいものはそっちなんだな、って秋元さんに大負けした瞬間ですね。 |
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今JASRACのデータベースに僕の曲が500曲近くあるんですか?じゃあまだだめだ。筒美京平さんが言ってました。1000曲まではいい、その次の1000曲が大変なんだって。
昔、まだ京平さんと面識がないときに、ディレクターが僕のことをからかって「小筒美京平」とか呼んでいたので、あえてあまり京平さんの曲を聴かないようにしてたんですけど、安倍麻美さんのアルバム(2003年)でアレンジを担当したときに、京平さんとご一緒させていただいて、そのとき京平さんのメロディのマジックを解き明かしちゃったんですよね(笑)。ご本人は非常に物静かなんですが、頭の中は岡本太郎というか。歌謡曲然としてるけど、ものすごいテンションの音を使っていたりとか、非常にパンクだしジャズだし、相当ハカイダーなんですよ。歌謡曲でも好き勝手やってるんだ、これは楽しいなって思いました。スキルとかテクニックだけじゃなくて、全部入れてもまだ足りないくらい面白い世界ですよ。 |
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思い入れのある曲、といえば全部ですが、振り返ってみるとディレクターの顔を思い出しますね。あの時こんなダメ出しがあって、自分はどう判断したんだとか。みんな育ててくれたと思ってます。「作曲家なんていなくなるよ」って言った人もいましたね、「もう音楽は売れなくなるよ、どうするの?」って。二日考えて、「ちょっと待てよ。俺はやめないわけだから、みんなやめたらコンペ俺一人か、よーし」みたいな(笑)。それで三日経って、OKやりますよってキラキラ目を輝かせちゃって。相変わらずバカだなこいつはと思われただろうな(笑)。だって、CDが売れなくなっても音楽がなくなることは絶対ない。だから創り続けた方がいいじゃないですか。このスタジオ機材も、一個人の作家にはこんなにいらないんだろうけど、だんだん必要になってきて、最終的にミックスも仕上げも全部やっています。 |