作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー 大貫妙子
大貫妙子
profile
1953年11月28日生まれ。1973年に山下達郎らとシュガー・ベイブを結成。75年に日本初の都会的ポップスの名盤『ソングス』をリリースするも76年解散。同年『グレイ スカイズ』でソロ・デビュー。以来、現在までに26枚のオリジナル・アルバムをリリース。日本のポップ・ミュージックにおける女性シンガー・ソングライターの草分けのひとり。その独自の美意識にもとづく繊細な音楽世界、飾らない透明な歌声で、多くの人を魅了している。
アルバムとしては、坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏、大村憲司らが参加した初期代表作『ロマンティーク』(80年)、『クリシェ』(82年)、現在もセッションに欠かせないピアニスト、ファビアン・レザ・パネ参加の『pure acoustic』(87年)、新進気鋭のミュージシャンだった小林武史参加による『DRAWING』(92年)など、今も色あせない日本のポップスの名作をリリースしている。
CM・映画音楽関連も多く、映画「Shall weダンス?」(監督:周防正行/96年)のメインテーマや98年の映画「東京日和」の音楽プロデュース(監督:竹中直人/第21回日本アカデミー賞最優秀音楽賞を受賞)、スタジオジブリ初の海外配給作品「裸のキリク」イメージ・ソングなどを担当した。
また、レコーディングや取材などで南極も含む5大陸すべてに足跡を残しているが、その紀行文や、日々の考えをつづったエッセイなどの文章も好評。その日々の暮らしの視点から、環境・エネルギー・食料などの問題についての発言も多く、農作業や東洋医学にもとづく健康管理を実践するという行動派でもある。愛称は「ター坊」。1992年3月からJASRACメンバーに。

大貫妙子さんオフィシャルwebサイト
http://onukitaeko.jp/
●こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から抽選で5名様に、今年3月に発売された大貫妙子さんの26thアルバム「Boucles d'oreilles」をプレゼントいたします。

応募締切日:2007年11月30日
(プレゼントの応募は締切りました。たくさんのご応募ありがとうございます。)
Boucles d'oreilles
(株)ソニー・ミュージックダイレクト /GT music(MHCL-1030)
¥3,000(税込)
●大貫さんの最新のお仕事
「めがね オリジナル・サウンドトラック」
大貫さんによる主題歌「めがね」を収録しています。
めがね商会
©めがね商会
(株)バップ(VPCD-81572)
¥2,500(税込)
また、10月3日にはクラウン時代のソロデビューアルバム「Grey Skies」とセカンドアルバム「SUN SHOUWER」が紙ジャケット、リマスタリングで再発売。ともにボーナストラックを収録しています。
●取材にご協力いただいたお店
THE CAMEL 西麻布

THE CAMEL 西麻布
〒106-0031
東京都港区西麻布2-5-1
TEL&FAX 03-3498-1217
info@thecamel.jp
日〜木11:30-24:00 /
金土11:30-26:00、不定休

大貫妙子

私が仕事を始めた70年代には、シンガー・ソングライターという形で活動している人は、ポップミュージックの世界ではほとんどいなかったですね。フォークの先輩はいましたけれども。「シュガー・ベイブ」を始めた頃は「はっぴいえんど」の大瀧詠一さんによく面倒をみていただきました。当時の音楽界というのは、芸能プロダクションがあって、そこに所属することが出発点という感じだったんですが、そういうところではない、すべてが素人集団の事務所から始めた経緯があります。
いわゆる、洋楽で育った世代だったので、自分たちが聴いてきた音楽をベースにオリジナルをつくるという。ですからシンガー・ソングライターという存在自体がサブカルチャーだったわけです。現在の音楽シーンで活躍するアーティストは、ほとんどがシンガー・ソングライターですし、それが主流と言ってもいいと思いますが、私は今でも「自分のやっていることはサブカルチャーだ」という思いがあります。ただ、私たちの“サブカル的な感情”を受け継いでいると感じる人は、今のアーティストの中では、ごく僅かですね。


何度かやめようと思った

30年の間には、それは何度かやめようと思ったことはありますよ。活動を始めた初期の頃、いいオリジナルがありながら、シングルを売るためには自分の曲を歌えないというような仲間を見ていて、「結局そういうこと?」っていう。音楽が商品であるっていうことが理解できなかったんですね、若かったですし(笑)。私自身のことでは、レコード会社を変わった時に「売れるアルバムを作ってね」と言われて、それまではセルフプロデュースだったんですが、外部のプロデューサーをつけられて、何度も詞や曲を書き直させられました。そうすると、どんどん作品が自分から離れていってしまうような気持ちになって、「もうやめちゃおうかな」と思ったこともありました。もちろん音楽が嫌いになったわけではなくて、ですが。でもその経験は、後に他の歌手に楽曲提供することに繋がりましたし、書き直させられた自分の曲は、今でも歌い続けているスタンダードな曲になりました。80年代にはアイドルも含め、ずいぶん書きました。歌詞だけ、曲だけ、というものも含めれば、100曲以上になります。以前は発注される時、たとえば、参考になるレコードとか歌詞のイメージを具体的に伝えてくれるプロデューサーが普通だったんですが、今は「おまかせ」というのが多くて。それが一番困ります。いずれにしても依頼された仕事はできるだけ受けるようにしています。そうでないと、また「やめちゃおうかな〜」っていうのが・・・・(笑)。


幕が開いたのに幕がある?

アコースティック・コンサートを始めたのも、ひとつのチャレンジでしたね。87年当時、クラシックの方しかステージに立てなかったサントリーホールでやってみないかというお話をいただいて。最初は「自分には無理かなあ」と思ってお断わりしようとも考えたんですが、仕事って多分「この人ならできるだろう」という前提があって頼んでくるわけですから、その時点では50%やれる可能性があるわけです。それを成功させるかどうかは、あと50%の自分の力なわけで。それならやってみるべきだと、お受けいたしました。それまでずっとポップス路線のバンドでやっていたわけですから、弦のカルテットをバックに最小限の音響システムで歌うというのはとても怖かった。それでも回を重ねるごとに、特に歌に関しては得るところが多くて、現在まで続いています。
でも、コンサートは未だに苦手です。30年もやっているというのに。
20代から30代のはじめまでは、ステージに出てから引っ込むまで緊張の連続で、コンサートが終わっても食事が喉を通らないほどでしたから。客席と自分の間に見えない幕が下りていて、自分の声がお客さんに届かないっていう感覚があったんです。
それが、40歳を過ぎたある日のステージで、突然幕がなくなった。それはびっくりしました。理由は未だにわかりませんが、やっと歌が歌えるようになったんだという思いでした。
最近は自分のアルバムでもシンセをあまり使わず、バンドによる録音を大切にしています。 若い頃は声に張りやのびはあるんですが、声の中の情報量は少ないんです。お年寄りと若者では、一言の言葉の重みが違うように。年を重ねると声の中の情報量が増えるんですね。そうするとシンセやコンピュータ音楽の中だけでは、なんだか歌だけが浮いてくるんです。生楽器というのはやはり情報量が多いですから、その中で歌う方がおさまりがいいんです。


1/2

→ NEXT

Copyright c 2007 JASRAC All Rights Reserved.