冨田 勲 ISAO TOMITA 1/2
プロフィール
1932(昭和7)年東京都生まれ。慶應義塾大学在学中に作曲家・平尾貴四男、小船幸次郎に師事し、作曲家としての活動をはじめる。1950年代前半から放送、舞台、映画、CMなど多彩な分野で作編曲家として優れた作品を数多く残す。
1973年からシンセサイザーを使った音楽作りをはじめ、74年ドビュッシーのピアノ曲をシンセサイザーで編曲した「Snow Flakes are Dancing」(月の光)、75年「展覧会の絵」発表。両アルバムとも米国ベストセーリング・クラシカルアルバム賞受賞。さらに「月の光」がビルボード誌のクラッシック部門で日本人初の1位を獲得するとともにグラミー賞4部門にノミネート。続く「展覧会の絵」「惑星」も同部門で1位となる。以来立体音響やレーザー光線などを駆使した屋外コンサート「トミタ・サウンド・クラウド」をオーストリアのリンツ、ニューヨーク、シドニーをはじめ世界各地で開く。2004年1月、伝統楽器とオーケストラ、シンセサイザーのコラボレーションによる「源氏物語幻想交響絵巻」を5.1サラウンドのDVDオーディオで発売。
主な作品にNHK大河ドラマ「花の生涯」、「天と地と」、「新平家物語」、「勝海舟」、「徳川家康」、 TVアニメ「ジャングル大帝」、「リボンの騎士」、 番組テーマ「新日本紀行」、「現代の映像」、「大モンゴル」、「街道を行く」、 映画「学校」シリーズ、「たそがれ清兵衛」、「隠し剣 鬼の爪」ほか多数。2004年10月著作権協会国際連合(CISAC)ゴールドメダル受賞。JASRAC評議員。

オフィシャルHP
http://www.isaotomita.com/

プレゼント
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から抽選で3名様に、冨田さんのサイン入り自伝「音の雲」(NHK出版)をプレゼントいたします。
応募締切日2005年3月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。



惑星 The Planets
BMGファンハウス BVCC-37408


源氏物語幻想交響絵巻
(DVD-AUDIO/VIDEO)DENON COAQ-22
音の響きに興味を持った少年時代から作曲家を志すまで
僕の場合音楽は、メロディではなくて“音の塊”として捉えているんです。子どもの頃、氷の上に乗るとピピピと音が走るとか、蒸気機関車の汽笛、やまびこや雷・・・。そういったものの音の響きに興味がありました。父の仕事の関係で、一時期北京に移り住んだとき、「回音壁」という丸い巨大な壁に出会いました。湾曲した城壁がくねくねと続いていて、音が反響するんですね。幼い頃のこの体験が音響というものに興味を持つきっかけだったと思います。

戦争の真っ最中でしたから聞こえてくるのは軍歌や唱歌、和製マーチみたいなものばかり。だからその頃は音楽には興味がなかったんですね。ところが中1のとき、終戦となるやいなや、ラジオからは24時間音楽が洪水のように流れてきました。クラシック、ジャズ、ラテン、シャンソン、カンツォーネ・・・。中でも20世紀の現代音楽にとても興味を持ったんです。なぜかというとラヴェルにしてもストラヴィンスキーにしても、20世紀の現代音楽というのはメロディよりも音の色彩を重要視している。戦争中に聞いた「ブカブカドンドン」の音楽隊と同じ楽器を使っていながら、なんでこんな音がするんだろうと疑問に思ったことが現代音楽にのめり込んだきっかけで、それが今でも続いているわけです。

ストラヴィンスキーの『春の祭典』を聴いて、どういう内容で、どういった傾向の音楽かはよくわからなかったけれども、地の底から湧き出る炎のような、エネルギッシュな感じ。どうやったらこういった音楽ができるのか、音響からくる興味ですね。まず構造が知りたかった。そこで楽譜を買ってレコードを外国から取り寄せたんです。日本にはまだLPがない時代でした。1枚3800円。2枚買ったから7600円です。山手線がどこまで行っても10円の時代ですが、どうしても手に入れたかった。そのレコードは今でも大切に保存していますよ。

作曲家を志したのはこの頃からです。いつかは自分もこういった曲をと夢に描いていたわけです。高校2年になって平尾貴四男氏、小船幸次郎氏について作曲を学びましたが、それまでは独学です。音楽学校に行かなくても楽譜と音があれば独学でも作曲はできるようになるんです。そして慶應大学2年のとき、全日本合唱連盟のコンクールの課題曲に応募した『風車』が1位に選ばれ、これが作曲家としてのスタートになりました。



これを機にNHKやコロムビアレコードとのつながりができ、作曲の依頼が増えた。テレビやラジオが国民の中に定着していく時代の流れの中で、ドラマや番組のテーマ曲、映画音楽などの仕事も殺到するようになる。

劇伴の作り方はそれぞれでまったく異なります。監督によっては固定イメージを持っていて、こことここにこういう音楽を入れたいと、細かく指示を出す人もいれば、すべてお任せという監督もいる。もちろんそのドラマや映画の内容を完全に把握しているということは絶対必要な条件ですけどね。 作曲は理屈ではないんです。テレビドラマでも映画でも、その物語の根底に流れている部分が、音楽と一致していれば非常にいい効果になりますが、そこが一致していないとなにかチグハグなものになってしまいます。時代劇だから必ずしも和楽器を使うとは限らない。その、根底に流れているものをつかみとる感覚というのは人に教わろうにも教われない、指導しようにも指導できない部分。それは何ていうか、言葉では言えない遺伝子のようなものなんでしょうね。

印象深いのは手塚治虫さんとの仕事です。特に「ジャングル大帝」はディズニーに負けたくないと、たいへんな意気込みだったんですよ。打ち合わせで手塚さん自らピアノでチャイコフスキーの「交響曲第四番」の一部を弾いてみせて、「こういう感じで」と。僕はレオの雄たけびの印象から、オクターブと一音跳躍するあのメロディからはじめたんです。周りのスタッフの評判はよかったんですが、手塚さんは「そんなメロディでは歌えない。歌えないものは一般に浸透しないから直してくれ」と言う。僕はレオの雄たけびを表現するのはそれしかないし、決して歌いにくいとは思っていなかった。「考えます」と言い続けてオンエアを待ったんです。結局考えたんだけどできなかったと。後から聞くとまあ満足しているらしいということで、理解してくれたのかなと思いましたね。



1970年の大阪万博で、ある企業のパビリオンの音楽を担当。このとき37歳。大阪滞在中、モーグシンセサイザーを駆使して作曲されたワルター・カーロスの「スイッチト・オン・バッハ」に出会う。

その頃、音楽として表現するための根本的な部分、つまり楽器音の限界といったものを感じていて、楽器音そのものを自分自身で作り出し、オリジナルな世界を表現しなくてはと思っていたので、発信音だけで作ったシンセサイザーの音楽というのが、僕が求めているものではないかと直感したんです。そしてアメリカのバッファローに、このシンセサイザーを製作したモーグ博士の工場があることを突き止め、輸入したのです。 羽田の税関ではたいへんだったんですよ。楽器ということで送られてきたけど、何か違うものだということで倉庫に1ヵ月以上止められてしまった。「これは楽器ではない。何だかわからないものを通すわけにはいかない、証拠を見せろ」と。仕方ないのでモーグ博士から演奏している写真を送ってもらい、保管料を支払って、何とか持ち帰ったんです。だけど音が出ない。そこから研究がはじまりました。

当時のシンセサイザーは外見は電話の交換台というか、飛行機の操縦室といった感じで、とにかくめんどくさい装置でした。説明書といっても機器としての説明しかない。これは楽器ではない、単に音を構築する道具。ノコギリ、ノミ、カンナ、カナヅチなんかが入った大工道具の道具箱みたいなもので、道具をどう使うかは使う職人が決めるんです。ただ、糸口がひとつほぐれるといろんな繋がりがわかってきて、あの音を出すにはこうしたらいいとか、頭の中にネットが出来上がってきました。僕はいわゆる電子的な音は好きではなかった。いかにナチュラルな音を作るかということに一生懸命だったんです。だから自分の描きたい世界、イメージに近づけるために、オシュレーターから出てくる剥き出しの電子音はなるべく隠したんです。 CM音楽などで効果音的な使い方は簡単だったけど、音楽的にどう使うかは本当にたいへんでしたね。でもどうしてもこれでアルバムを出したかった。稼がないことには償却できませんから。当時1000万、借金してでもほしかったんですよ。
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