大野克夫 KATSUO OHNO
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Profile
1939年京都市生まれ。関西のジャズ喫茶を中心にスティールギター奏者として音楽活動を開始。62年にザ・スパイダースのメンバーとなり活躍する。71年に沢田研二、萩原健一らとともにPYG(ピッグ)を結成。その後ステージ活動のかたわら、テレビ音楽・映画音楽を手がける一方、多数のアーティストへ楽曲を提供する。特に沢田研二への提供曲は多く、77年の「勝手にしやがれ」は、日本レコード大賞、日本歌謡大賞など各音楽賞を受賞。以後、作曲、編曲、レコードプロデュースなど幅広い分野で活躍。現在は「名探偵コナン」シリーズの音楽を手がけている。
〈おもな作品〉
■沢田研二
「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「サムライ」「ダーリング」「ヤマトより愛をこめて」「カサブランカダンディ」「指」他
■西城秀樹
「ブーツをぬいで朝食を」
■木之内みどり
「横浜いれぶん」
■五木ひろし
「大人のつきあい」「杯に歌のせて」
■五木ひろし&木の実ナナ
「居酒屋」
■小林旭
「最后にもひとつ」「駅」
■石川さゆり
「沈丁花」「朱夏」
■内田裕也
「ローリング・オン・ザ・ロード」
■大竹しのぶ
「密柑」
■桜田淳子
「ねえ!気がついてよ」
■田中美佐子
「二人は踊った」
■八代亜紀
「日本海」
他多数
【映画音楽】
「水のないプール」「十階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」「木村家の人びと」「魚からダイオキシン!!」「エロティックな関係」
他多数
【テレビ音楽】
「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「寺内貫太郎一家」「悪魔のようなあいつ」「祭ばやしが聞こえる」「ただいま放課後」
土曜ワイド劇場「終着駅シリーズ」「名探偵コナン」
他多数
【テレビ主題歌】
「かたぐるま」「赤い嵐」「太陽の子エステバン」「若草学園物語」「電撃戦隊チェンジマン」「五星戦隊ダイレンジャー」
他多数
Present
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から抽選で3名様に、大野克夫デモテープ集「幻のメロディーVOL.1」とサイン色紙をプレゼントいたします。
応募締切日2004年12月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。
大野克夫デモテープ集「幻のメロディーVOL.1」とサイン色紙
名探偵コナン 銀翼の奇術師
大野克夫バンド/「名探偵コナン 銀翼の奇術師」(ユニヴァーサル)
幻のメロディー VOL.1
大野克夫/「幻のメロディー VOL.1」
(UN DOUGHNUTS LABEL)
幻のメロディー VOL.2
大野克夫/「幻のメロディー VOL.2」
(UN DOUGHNUTS LABEL)
2004年10月20日発売
幻のメロディー VOL.3
大野克夫/「幻のメロディー VOL.3」
(UN DOUGHNUTS LABEL)
2004年10月20日発売
大野さんの音楽のルーツは、京都で過ごした少年時代。家業は京都の呉服商だったが、父親は趣味の領域を超えた尺八の名手。その影響なのか、大野家にはさまざまな楽器が置かれていた。
ピアノ、マンドリン、バイオリン、手風琴(アコーディオン)・・・。いろいろな楽器がありました。でもなぜあったのか、家族の誰かがそれを演奏していたという記憶はないんです。父と母の見合いは尺八と琴のセッションだったそうですし、音楽に囲まれた環境ではありましたね。

基本を教えてくれたのは小学校1、2年の担任だった音楽の先生。2年生のときにト音記号とヘ音記号の書き方、シャープとかフラットの読み方書き方を教わったとき、譜面を書くってこんなおもしろいものなんだと思ったんです。今でも譜面を書けない人に、そのとき教わったように教えると5分で書けるようになるんですよ。
4年生のときには担任の先生に頼まれて『卒業生を送る歌』を作詞、作曲して、これを卒業式の当日我々のクラス全員で合唱することになってね。校長先生は母親に「お子さんは音楽の道に進ませてあげてください」と言っていたようです。

中学時代の夏休みの頃だったと思うんですが、斜め向かいの家から ピューン と心地いい音が聞こえてくる。何だろうってその音にすごく興味が沸いて、家にあったギターでいろいろ試してみたんです。多分これだなと、ギターを下に置いて、湯飲み茶碗の丸いところでこすって弾いてみた。ああ、この音だなと・・・。中学では数学部だったんですが、高校では軽音楽クラブに入りました。そのとき出会った先輩が、スティールギターを自分で作ってバンドをやっていて、まさにその音なんですね。それでその先輩に同じように手作りでスティールギターを作ってもらい、中学のときの数学部の仲間を誘ってカントリーのバンドをはじめました。
当時「京都ジャズ合戦」というコンテストがあって、それに出場して、演奏した曲が西部劇映画『誇り高き男』の主題歌。口笛のメロディーの部分をスティールギターの一番高いところで弾いて。それが印象的だったらしく優勝しちゃったんです。もう有頂天になってプロを目指そうと思いましたね。
ジャズコンテストの優勝がきっかけで、当時ロカビリーでは京都の代表格だった「ゲイリー石黒とサンズ・オブ・ウエスト」の石黒氏の目にとまり、夏休みや冬休みに同士のバンドで演奏をしているうちに正式メンバーとなる。そしてこの間に演奏技術を高め、作曲の技法も学んでいく。61年5月にザ・スパイダーズを結成し、メンバーをさがしていた田辺昭知氏と出会い、スパイダーズに勧誘される。
確か大阪のライブハウスでスティールギターを弾いていたときに田辺さんに声をかけられました。僕がスパイダースに入ったのは62年。1年半くらい待たせてしまった。
作曲は“サンズ・オブ・ウエスト”の頃からやっていました。最初にレコード化されたのはその頃作っていた曲で、後に“ビーバーズ”のデビュー曲になった『初恋の丘』です。
スパイダースは役割分担がはっきりしていて、僕は作曲もするけどアレンジしたり譜面を書いたりが中心。作曲はほとんどかまやつひろしさんにお任せでした。かまやつさんはアイデアが豊富な人で、振り付け、衣装、選曲担当。ビートルズなんか日本でレコード発売される前に持っていたのでどのグループよりも先にコピーしていましたね。

僕は最初はスティールギターだったんですが、ちょっと人気が出てきて、野外での仕事が増えてくるともうチューニングする時間もない。特にベダルスティールはチューニングが微妙。例えばスティールギターはイントロだけにして、後はオルガンといったように、徐々に楽器を移していって、そうこうしてるうちに全部キーボードになってしまったんです。
機材にもこだわりましたね。当時イギリスの「リバプール・ファイブ」というバンドが来日して、使ってるマイクがいい音してたんです。AKG(アー・カー・ゲー)の四角いマイク。アンプもビートルズが使っているのと同じVOX社製。そういうもの一つひとつがすごく印象深くて、痺れてましたね。当時珍しかった白鍵盤と黒鍵盤が逆になっているVOXのオルガンも田辺さんがロンドンから取り寄せたんですが、弾こうと思って電源を入れても音が出ない。壊れてるんじゃないかと思ったら電圧が向こうのままだった(笑)。スパイダース時代に使っていたオルガンは全部これです。音はチャーッと、シャープな、レコードで聴いた音そのまま。日本で発売されているメーカーのコンボオルガンは、やわらかいというか、特に立ち上がりが甘かったんですよね。

マンフレッド・マン(60年代に活躍したイギリスのバンド)のオルガンの音がいいねとか、ハープシコードみたいな楽器使ってたりとか。ホフナー(ドイツの楽器メーカー)のエレキピアノだと聞くと、もう即それと同じものを買ったりしてね。楽器もいろいろ試して、貪欲にいろんな音をとり入れていったんです。
やがてGSブームにも翳りが見えはじめ、スパイダーズも71年1月の「日劇ウエスタン・カーニバル」のステージを最後に10年におよんだ活動に幕を下ろした。大野さんは、ザ・スパイダーズ、ザ・タイガース、ザ・テンプターズから2人ずつ集まって結成されたスーパーグループ、PYG(ピッグ)に参加した。
PYGは、GSが下火になって、渡辺プロが企画したんですが、メンバーそれぞれの仕事が忙しくなって1年半くらいで終わってしまった。最初のうちに入っていた客も、沢田研二とショーケンのファンに二分していって、徐々に来なくなってしまった。プロダクションとは別にわれわれはここからまたスタートすればいいと思っていたけれど・・・。アルバムを1枚と2枚組ライブ盤とシングル3枚は出したけれど不発に終わって、フェイド・アウトしてしまいました。
PYGから沢田研二がソロシンガーとして独立し、萩原健一は俳優に転向。残りのメンバーで沢田研二のバックバンドを務める一方、大野さんは72年から始まった人気刑事ドラマ「太陽にほえろ!」の音楽を担当。75年には『時の過ぎゆくままに』が大ヒットし、その後歌謡界のヒットメーカーに。
『時の過ぎゆくままに』は、もともと阿久悠さんの原作で上村一夫さんが劇画化した作品の中に、あの歌詞があったんですね。これを主題歌にして、「悪魔のようなあいつ」という、沢田研二主演の3億円事件の犯人をモデルにしたドラマの話があった。その劇中で、彼が生ギターの弾き語りでこの曲を歌うという設定で作曲の話がきたんだけど、プロデューサー兼、演出の久世光彦さんのところに行ったら実は6人の競作だということでした。でも僕はその話を聞いたとたんにすぐメロディーが浮かんできたんです。その日の夜にデモテープを作り翌日一番に持って行って、結局僕のものが採用になりました。このときの音が、昨年デモテープの音源を集めて出したCD「幻のメロディー」に入っています。レコード化されたものとほとんど同じアレンジなんです。

77年からは阿久さんと組んで、沢田研二の一連のヒット曲を手がけるわけですが、このころが一番多忙でしたね。作曲もするし、バックバンドとしてテレビ局や、コンサートのステージにも一緒に行かなければいけない。いつもノートを持ち歩いて、わずかな時間を見つけては曲を作っていましたよ。
あの当時、テレビではみんなフルバンドで歌うんだけど、彼はそれは嫌だと言って、我々がバックバンドをやった。バンドを帯同していた歌手は彼が最初だと思います。でも、これも79年の『ロンリー・ウルフ』で一区切り。若いバンドに交代したらまた違う沢田研二が出てくるんじゃないかと、そんなつもりで新しいバンドのオーディションをして、バトンタッチしました。
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