作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー
加古隆
Profile
1947年、大阪府生まれ。東京芸術大学・大学院作曲研究室修了後、フランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立音楽院(Conservatoire)にてオリヴィエ・メシアンに師事。在学中の1973年にパリで即興ピアニストとしてデビュー、1976年作曲賞(Prix de Composition)を得て卒業。1979年日本人として初めてドイツ・ECMレーベルから『パラドックス』を全世界発売。自作品によるコンサートは26カ国約200都市に及ぶ。1980年に帰国後は映画、舞台、オーケストラなどの委嘱作を含め、作曲及び演奏に、クラシック、現代音楽、ジャズの要素を包含した独自の音楽スタイルを確立した。代表作には、パウル・クレーの絵の印象によるピアノ曲集『クレー』、NHKスペシャル『映像の世紀』、『にんげんドキュメント』、音楽詩劇『賢治から聴こえる音楽』等があり、50作以上のアルバムを発表。1998年モントリオール世界映画祭のグランプリ作品「The Quarry」(ベルギー/マリオン・ハンセル監督・邦題「月の虹」)の作曲で最優秀芸術貢献賞を受賞。その後も映画「大河の一滴」(神山征二郎監督)、「式日」(庵野秀明監督)などの音楽を手がけた。また、2002年に公開された「阿弥陀堂だより」(小泉堯史監督)の音楽で第57回毎日映画コンクールの”音楽賞”、第26回日本アカデミー賞の優秀音楽賞を受賞。最新オリジナルアルバムはデビュー30周年を記念した「アニヴァーサリー」(ソニー・ミュージック)。2003年のNHKスペシャル「地球市場−富の攻防」、フジテレビ開局45周年記念番組「白い巨塔」の音楽も担当している。
※オフィシャルホームページ
http://www.takashikako.com/


Present
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で3名様に加古隆さんのサインがデザインされた携帯ストラップをプレゼントいたします。
応募締切日:2004年5月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。
「アニヴァーサリー」
「アニヴァーサリー」
(C)Sony Music Japan International Inc.
「Scene」
「Scene」
映像音楽作品集1992-2001
(C)Sony Music Japan International Inc.
ベートーベンの「運命」が音楽との出会い〜ジャンルを意識することなくクラシック、ジャズのレコード収集に熱中
 僕の生まれた環境は、音楽とはあまり縁がないごく一般的なものでした。小学校時代の二つの出会いが音楽家としての人生を方向付けたんだと思います。一つは、小学2年生の担任だった音楽の先生との出会い。その先生は、生徒全員で合奏したとき、僕の音楽センスを認めてくれ、両親にピアノを習うように勧めてくれました。

  もう一つは、ベートーベンの「運命」との出会い。知り合いの家にたった1枚だけあったレコードが「運命」で、それを聴きたいがために泊まりに行き、ポータブル・プレイヤーで何度も繰り返し聴いていました。当時は、ベートーベンがクラシックの作曲家だという知識もありませんでしたし、クラシック、ポピュラーといったジャンルの違いも意識していませんでした。たまたま出会った作品がクラシックの名作だったのは、とても幸運でしたね。

 その後、ピアノを習いごと感覚で始めましたが、小学校高学年から中学時代の前半はレコード収集にとても熱中していました。音楽雑誌の存在を知らなかったので、唯一の情報源は駅前の小さいレコード屋さんです。何度か通ううちに、店長さんに珍しがられて色んなレコードを教えてもらいました。ベートーベンの次はブラームス、それからドビュッシー、ラヴェルという風に。なかでも印象的だったのは、ストラヴィンスキーの3大バレー組曲「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「春の祭典」。それまで聴いていた近世のクラシック音楽にはないサウンドにとても惹きつけられました。一方で、高校に入るとジャズが好きな先輩の影響でジャズピアノも弾くようになりました。決定的だったのは、先輩に誘われて見に行ったアート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズのコンサート。ドラムの音が自分の体に突き刺さるような衝撃を受けて、翌日からはジャズのレコード収集に熱中することになります(笑)。

中学時代に恩師の言葉で芸大受験を決意 〜パリ国立音楽院留学時代にメシアンから音楽家としての姿勢を学ぶ
 中学3年生の終りにはピアノの先生の勧めもあって、芸大の作曲科に入ろうと本格的なレッスンを始めました。作曲科を受けようと思ったのは、恩師であるピアノの先生の言葉が大きかったですね。先生は、ピアノ教育の大家でたくさんの生徒さんを育ててきましたが、ある日「僕は60を過ぎて、自分の作品が一つも残っていないのが寂しい。だから、作曲家を目指すのは夢があっていいと思うよ」とおっしゃったんです。

 その言葉に焚きつけられて、作曲家を目指す決意を固めます。当時は、ピアノのほか柔道の練習にも打ち込んでいたので「才能はあるかもしれないけど、ピアノ科に入るためには、その程度の練習じゃ無理だよ」とも言われていましたし(笑)。レコードを買う時に演奏家ではなく、作曲家の名前で選んでいたことも作曲に興味があった証じゃないでしょうか。音楽が自分のそばにあることはとても魅力的でしたので、指揮者になるかピアニストになるか分からなくても「根本である作曲を勉強していれば間違いないだろう」という考えもありました。

 東京芸大で大学院をあわせ6年間学んだ後、パリ国立音楽院に留学します。パリでは、文化、価値観、生活習慣の違い・・・そして、ヨーロッパにおけるクラシック音楽の歴史と伝統の重さを肌で感じることになります。オリヴィエ・メシアンという現代音楽の巨匠の薫陶を受けたこともその後の人生を大きく左右しました。彼が僕にいつも言っていたのは、「ムッシュ・カコ、あなたが日本人であることは大変な財産なのです」という言葉。メシアンは、西洋音楽だけでなくインド音楽や雅楽・能など世界中の音楽にも造詣が深かったんです。僕は彼の言葉に「世界の中でも固有の文化を持つ日本という国に生まれたことを誇りに思いなさい」というメッセージを感じました。メシアンからは作曲技術や理論だけでなく、音楽家の姿勢やプライドを学ぶことができたと思います。



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