作家で聴く音楽vol.10 松本 隆 JASRAC


Profile
1949年7月16日、東京都港区生まれ。中・高・大と慶應義塾で過ごす。20歳の時、伝説のロックバンド「はっぴいえんど」を細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂と結成し、ドラムスと作詞を担当。同バンド解散後、作詞家となり太田裕美、松田聖子をはじめ多数のヒット曲を手がけ、81年「ルビーの指環」で日本レコード大賞作詞賞を受賞。87年、小説「微熱少年」を自らの監督により映画化。92年シューベルトの歌曲「冬の旅」全24曲を現代口語訳し、94年にはクラシック企画第2弾アルバムとして、モーツァルトらの曲にオリジナル詩をつけた歌曲集「天国への階段」を発表。KinKi Kids(97年〜)や山下達郎(96年〜)へシングル、アルバムの作品を提供し、98年10月インターネット上で公式サイト「風待茶房」を開設。99年、作詞活動30周年を迎え、6+1枚組記念CDボックス「風待図鑑」を発売。2002年、シューベルト「美しき水車小屋の娘」を日本語訳するなどクラシック方面での活動を続ける一方、オリジナル・ラヴ、中島美嘉、藤井隆などへ詞を提供。また、インディーズ・レーベル“風待レコード”を発足。作詞最新作は、KinKi Kidsのシングル「薄荷キャンディー」。
主な作品はこちら

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■風待レコード
Kazemachi Records

「風待レコード」第0弾
キャプテンストライダム
1st maxi single
『マウンテン・ア・ゴーゴー』
2003年9月25日全国発売
KRUK-1000/全3曲収録/\500(税別) 


「風待レコード」
アルバム第一弾アーティスト
neuma 1st album『窓』
2003年9月10日発売
KRUK-1001/全10曲収録/\2,500(税別)
歌詞作りの本質は曖昧で複雑な人間の感情の中から余計なものを削いで「上澄み」をすくい取ること
音楽との接点は、ストラヴィンスキーやラヴェルを聴き始めた小学生の頃かな。ジャン・コクトー、ランボーなどの詩も読んでいたけど、バスケット部の練習に熱中していたから文武両道の少年時代でした。ところが、中学3年の時に登場したビートルズの影響でドラムを買ってからは、一気にロックまっしぐら。高校の時に組んだ洋楽のコピーバンドでは、コンテストで賞をとってテレビ番組でドラムソロを叩いたこともあったから、テクニック的にもいい線行ってたかもしれない(笑)。

プロとしてのスタートは、細野晴臣さんに誘われて参加した“エイプリル・フール” というバンド。でも、レコードの発売当日に解散を発表するという前代未聞の結果に終わります(笑)。当時の音楽シーンは、格好だけロックっぽくて中身は歌謡曲だったグループ・サウンズが流行った後、クラプトンやストーンズの即興フレーズを本人達よりも正確に弾くようなコピーバンドが主流でした。

そうした風潮に反発して結成したのが、“はっぴいえんど”です。
それまでの歌謡曲やフォークは、恋や青春などのキーワードを並べただけのラブソングが多くて、僕にとっては絵空事だったんです。
はっぴいえんどでは、安直なラブソングではなく、身近にある風景や出来事を愛おしく想う気持ちを表現することを心がけました。だから、「夏なんです」や「風をあつめて」は僕にとっての“ラブソング”です。「夏なんです」は、地面との距離が近くて、空は高くて広いという少年の目線で夏休みや入道雲への愛情を素直に表現できたんじゃないかな。

歌詞作りは、曖昧で複雑な人間の感情の中から余計なものを削いで「上澄み」をすくい取る仕事だと思っています。はっぴいえんどでは、“ことば”や“うた”を通して、生や死など人間の本質に関わる問題について答えを出そうと作詞に取り組んでいました。

作詞家になってからは「質」と「量」の両方を追求し、コツコツと作品を積み重ねることを心がけた
はっぴいえんどは実質3年間の活動で解散しましたが、しばらくは路頭に迷って「サラリーマンになろうかな」と考えたこともあります(笑)。
食べていくために手っ取り早いのは、作詞家になることだと考えて、知り合いのディレクターに「作詞家になるからよろしく!」って宣言して回りました。
作詞家としてのデビューは、「ポケットいっぱいの秘密」(アグネス・チャン)。続いて、「夏色のおもいで」(チューリップ)がヒットしました。
チューリップに詞を提供した時は、はっぴいえんどに近い感覚で取り組みましたが、当初はアグネス・チャンのようなアイドルに詞を書くことは考えていませんでした。
“作詞家宣言”した時には、テレビのCMソングをやりたいと思って「コマーシャル・ソングが書きたい」って言ったら、友人がコマーシャル=商業音楽だと勘違いして、人気アイドルだったアグネスの曲を持ってきたんです(笑)。

はっぴいえんど時代は、売れることは考えないで自分達の信じる音楽の質を追求すれば良かったけど、ビートルズと比較した時に圧倒的に違ったのが、「量」(売上枚数)でした。その時の反省をこめて、作詞家になってからは「質」と「量」の両方を追求することを心がけました。
音楽業界の中には「量のためには質を落とせばよい」というような暗黙の了解がありましたが、僕はそうした風潮に一貫して闘いを挑んできました。安易な粗製濫造コピーで下品な作品を残したくなかったから。松田聖子をはじめ斉藤由貴、薬師丸ひろ子など多くの歌手の作品を手がけましたが、誰かを真似したような「亜流」を作らないことが、自分のプライドでした。僕の詞を歌うことでそれぞれの歌手が全く違った個性の生命体として輝けるとしたら、とても嬉しいことです。

今までに2000作品以上を作ってきて感じるのは、コツコツと作品を積み重ねていく姿勢がとても大事だということ。人間っていきなり大きな岩を置くことはできないけど、小さな石を丹念に積んでいけば、後世に残るようなピラミッドや古墳を作れるかもしれないんです。

古典芸術を「神棚」に飾って拝むのではなく、生身の人間が作った作品として感じていきたい
10年前からは、シューベルトの歌曲集を口語訳する仕事にも取り組んでいます。日本ではクラシックなどの古典芸術を「神棚」に飾って拝む傾向があって、以前から違和感を感じていました。
ある評論家が「50歳以下の人間は、“冬の旅”を歌っちゃいけない」って言ってたんだけど、作った本人のシューベルトは31歳で死んでるから矛盾してるよね(笑)。生身の人間が作った作品を神格化して祭り上げるようなことをしていると、芸術が自分で自分の首をしめるようなものです。
「他に誰もやらないなら、自分がやるしかない」と思って歌謡曲の仕事を少し休んで、現代の言葉で新たな訳をつけました。

一般的には、クラシックの作曲家は生前あまり評価されていなくて不遇だったみたいなイメージがあるけど、モーツァルトも「魔笛」という作品を大衆劇団と作ったりして、同時代の大衆からそれなりに支持されていたようです。
僕にとってのシューベルトは、元祖“ヒッピー”な存在(笑)。
定職につかないでぶらぶらして、酒代がないから代わりに譜面を置いて帰ってきちゃう、みたいなエピソードもあるし。
今から100年以上前に亡くなった素晴らしい作曲家の作品に言葉をつけることで、また新たな血が通うような気がして新鮮な気分になります。

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