作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビューvlo7
PROFILE
1948年、愛知県豊橋市生まれ。1967年、CBS・ソニーレコードから「ブルー・シャルム」としてデビュー。解散後、兄(馬飼野俊一)の影響で、作曲・編曲を手掛け、歌謡曲、コマーシャル、テレビ・映画など幅広い分野で活躍中。1970年11月、JASRAC入会。

【代表曲】
「傷だらけのローラ」(西城秀樹)、「古い日記」(和田アキ子)、「愛のメモリー」(松崎しげる、マジョルカ音楽祭第2位入賞)「スマイル・フォー・ミー」(河合奈保子)、「艶姿ナミダ娘」(小泉今日子)、「男と女のラブゲーム」(日野美歌・葵司朗、1988年JASRAC賞銅賞)、「男と女のはしご酒」(武田鉄矢・芦川よしみ)、「DAYBREAK」(男闘呼組)、「しようよ」、「Can't Stop!!−Loving−」、「ORIGINAL SMILE」(SMAP)、「勇気100%」(光GENJI)、「勇気100%(2002)」(YA−YA−yah)、「愛されるより愛したい」(KinKi Kids)、「A・RA・SHI」、「SUNRISE日本」、「感謝カンゲキ雨嵐」(嵐)、他多数

こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で8名様にNHKアニメ「忍たま乱太郎」の原作者、尼子騒兵衛先生の書き下ろしによる馬飼野さんのイラスト(サイン入り)をプレゼントいたします。

応募締切日:2003年6月1日
プレゼントの応募は締め切りました。
たくさんのご応募ありがとうございました。
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音楽一家に育ち、日本人のルーツ的な歌謡曲を徹底的に体に染み込ませた
僕は、愛知県の豊橋出身なんですが、うちのオヤジ(馬飼野昇)が実家の商売のかたわらギタリストをやっていて、ご当地ソングなど作曲の仕事もしていました。オヤジは、「ここに幸あり」のヒットで知られる大津美子さんのバックバンドとしても活動していて、僕や兄貴(馬飼野俊一)もファミリー楽団みたいに駆り出されていました。オヤジが書く曲は、コテコテの演歌っぽいものでしたが、地元では今でも知っている人は多いですよ。子供の頃から日本人のルーツ的な歌謡曲を徹底的に体に染み込ませたのは、その後の作曲活動でも役立っていると思います。
子供の頃から家族でタンゴバンドもやっていましたが、中学・高校に入ってブラスバンド部に所属しました。ロックに目覚めたのは、ベンチャーズに代表されるエレキ・サウンドが大ブームになってからです。親戚でギターやベースをやっていたお兄ちゃんから「バンドのコンテストに出ようよ」って誘われて、キーボードを始めました。キーボードに興味を持ったのは、豊橋出身でジャズピアニストとして活動していた吉田さんの演奏を聴いた時の「コード感」が今まで聴いたことのないハーモニーですごく魅せられたことがきっかけだと思います。ジャズで使われるコードって複雑なんですけど、神秘的で美しい響きを持っていますよね。

グループ・サウンズの「ブルーシャルム」に参加バンド解散後、映画音楽のアレンジの仕事がプロ作家としての原点
オヤジは僕に商売をつがせようと思って、地元の商業高校に行かせたんですが、僕は高校を卒業したら音楽を本格的に勉強したくて東京の尚美音楽学園でクラシックの和声を勉強しました。在学中に東京で知り合った仲間とグループ・サウンズの「ブルーシャルム」というグループを結成して、CBS・ソニーからデビュー(1967年)したので、学校の方は2年位で辞めてしまいましたが、ここでの勉強は後にアレンジの仕事をするうえでの基礎になりました。

「ブルーシャルム」は派手さはありませんでしたが、ジャズっぽいコーラスをとり入れ洒落たサウンドのバンドでした。詞や曲はプロ作家の方が書いていたので、バンド時代の僕の役割は、コーラスのアレンジや演奏者(キーボード)としての役割が中心でした。オリジナル曲の他にもゾンビーズの「ふたりのシーズン」(TIME OF THE SEASON)などの洋楽をカバーしましたが、シングルを4枚出しただけでバンドは1970年に解散しました。

その後、ビクター系列の制作会社から「シェルブールの雨傘」などの映画音楽をBGM用にアレンジする仕事を頼まれて、かなりの量をこなしました。当時のBGMレコードは、日本人が演奏しているのに「演奏:ユニバーサル・オーケストラ」などの名義でいかにも外国人がやっているように見せかけていて(笑)、ポール・モーリア風のムード音楽っぽいアレンジのものが中心でした。
BGM用レコードの制作予算は少なかったから、量をこなして良い音を出せる駆け出しの新人アレンジャーに仕事の発注が来たんだと思います。

仕事の進め方としては、オリジナルのサントラ盤レコードを聴いて、耳コピーで採譜した後、自分なりのアレンジを組み立てていきます。高校時代にブラスバンドで映画音楽を吹奏楽用にアレンジをしていた時の経験が生きたし、尚美学園で学んだクラシックの基礎が弦楽器のアレンジをする時に役立ちました。
シンセサイザーを使えば、生楽器では出すことができない音域まで発音することができますが、生オーケストラ用のアレンジをする時には、楽器ごとに正確な音域を把握していないといけないんですよね。1970年代は、アレンジの勉強を兼ねて洋楽全般を聴いていて、グレン・ミラー、ビートルズのようなスタンダードからモータウンのようなソウル・ミュージックまでジャンルにこだわらず色んなサウンドを吸収していました。
 
1970年代の半ばから歌謡曲、アニメ、映画、CMなど、さまざまなジャンルの作・編曲の仕事を本格化
傷だらけのローラ
傷だらけのローラ(西城秀樹)
掲載協力:BMGファンハウス、アースコーポレーション
 
愛のメモリー
愛のメモリー(松崎しげる)
掲載協力:ビクターエンターテインメント
所蔵:国立国会図書館
歌謡曲のアレンジを始めたのは、1973年に出た西城秀樹さんの「チャンスは一度」(曲:鈴木邦彦)からだと思います。だから、今年はちょうど30周年のはずなんですよね(笑)。アレンジの仕事をしているうちに、作曲の依頼も徐々に増えてきました。当時は、歌謡曲のほか、アニメ(「エースをねらえ!」、「ベルサイユのばら」など)、映画、CMなど色んなジャンルの作曲・アレンジを手がけました。

作曲と編曲をする場合には、曲と並行してアレンジのイメージがなんとなく見えてきますね。70年代の作品で、お気にいりの作品は「愛のメモリー」(松崎しげる)と「傷だらけのローラ」(西城秀樹)です。どちらの曲も、マイナー調でヨーロッパっぽい哀愁を帯びたメロディで僕が好きな世界観ですし、詞も大人のムードが出てますよね。

曲を作る時は、ヒットチャートはあんまり意識しないです。チャートを意識しても変なプレッシャーになるだけなので、自分の納得する作品に仕上げることを第一に心がけています。制作を仕切るレコード会社やプロダクションのプロデューサーも僕に仕事を頼むとどんな作品になるかのイメージがあらかじめ分かっているんじゃないでしょうか。

最近のパターンだと、曲が出来た後で詞や作品のタイトルが決まることが多いので、音源として完成してから「こんな歌詞がついたんだ」って分かることもありますね(笑)。僕自身は、インストよりも歌詞のあるヴォーカル物の方が好きなんですが、作詞家の方が曲のメロディからうまくイメージを膨らせていただくとバチっとはまった良い作品が出来て、結果としてヒット作になるんじゃないでしょうか。

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