若い頃は、文化に立ち向かうような気持ちで、客が誰もいないところで前衛音楽をやっていましたから(笑)、もっと尖っていきたい、もっとアートに突っ走ってしまいたいという欲求は今でも持っています。ただ僕は、久石譲のそういう側面を理解してくれている人たちのためだけに音楽をつくっているわけではありません。僕の音楽を聴いてくれる人たちには、『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』から入った人もたくさんいるわけです。それは言わば、久石譲の全国区的な、NHK的な側面ですよね。そういった一般の人たちに「あれ?」って思わせてしまうのは失礼かな、という思いはある。ですから、尖りすぎたアルバムをつくった後には比較的わかりやすいものをつくるとか、その辺りのリスナーとのコミュニケーションの取り方というのは常に考えてアルバムを制作しています。
そういう意味では、昨年リリースした『Asian X.T.C.』は、方法論として良かったのかどうか、まだ自分の中で結論が出ていない作品です。この作品では、ちょっとポップス寄りのメロディアスな作品と、ミニマルの攻撃的な姿勢の作品を、昔のレコードのようにA面とB面で完全に分けてしまうという方法をとりました。音楽家の意図としては非常に明快ですし、作品としてもすごく納得しているつもりなんですが、あのような形式が本当にリスナーとコミュニケーションを取れる方法だったのか。それを考えると、まだちょっとクエスチョンマークが付いていますね。


納得がいく作品というのはなかなかないんですよ。例えば、1本の映画で30曲ほど書くわけですが、メインテーマについてたとえ皆が「すごくいい」と喜んでくれたとしても、その30曲のうち5、6曲は「こんなはずじゃなかった」という気持ちがある。弦の書き方とか、メロディラインにインパクトが少ないとか、いろいろ引っかかるんですね。ソロアルバムを制作しても、収録した10数曲の中にはそういう曲が何曲かあって、でもまあいいかと思って入れてしまったものが、やっぱり自分の中で引っかかっていたりします。あるいはアルバムのコンセプト自体、もうちょっと尖ればよかった、ちょっと迎合しちゃったかな、とか。そうすると、できなかったことを次の仕事で確実にクリアしたいという思いが強くなる。でも、それをクリアすると、また別の課題が出る。どんな場合でも満足することがないから、次の可能性に向けてチャレンジができるんです。経験したり勉強することで身につくことが必ずありますから、表現するということは一にも二にも勉強だと思います。
納得のいく作品をあえて挙げるとすれば、1992年に発表した『My Lost City』というソロアルバムと、2003年の『ETUDE』というピアノのソロアルバムでしょうか。この2枚は、世間での評価とは関係なく、あのときにあの作品ができたことがすごく良かったと思える作品ですね。
映画音楽は今までたくさん手がけてきましたが、2001年に、弦楽四重奏団を題材にした映画『カルテット』を自分で監督したときには、映画を撮るということはこんなに怖いことかということを痛感しましたね。映画監督の場合、例えば主人公が何を着るのかまで全部決めなければなりません。いくつか選択肢がある中で、自分が選んでいるものというのは、結局自分が好きなものなんですよ。黒いTシャツに黒めの服とか、気づいたら普段自分が着るものなんです。音楽というものは抽象的ですから、作品を聴いてもその音楽家の人格まではわかりませんが、映画の場合、いいと思うことを素直にやっていくと、そのままの自分が出てしまう。「これはいやだな」と思いましたね(笑)。おそらくプロの監督の方だったらまた違うんでしょうけれども。撮影はとにかく大変でしたが、映画監督を経験して得たものは、その後の映画音楽の制作にも非常に役立っています。
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