作家で聴く音楽JASRAC会員作家インタビュー第12回 林 哲司

Profile
静岡県富士市生まれ。
1972年、チリ音楽祭をきっかけにシンガー・ソングライターとしてデビュー。
以後、作曲家としての活動を中心に、1983年、杉山清貴&オメガトライブ「SUMMER SUSPICION」等で、東京音楽祭の国内・国際部門において最優秀作曲賞、1984年ベスト・コンポーザー賞に輝く。 上田正樹「悲しい色やね」を筆頭に1983年より5年連続日本作曲大賞優秀作曲賞、1987年稲垣潤一「思い出のビーチクラブ」で同作曲大賞を受賞。
その他、杏里「悲しみがとまらない」、竹内まりや「September」、中森明菜「北ウイング」等、今までに1500曲以上を提供。
また、映画「ハチ公物語」、「遠き落日」、「宮澤賢治 その愛」、「大統領のクリスマスツリー」、「釣りバカ日誌13」、TVドラマ「人生は上々だ(木村拓哉/浜田雅功)」「ブランド(今井美樹)」、「恋するトップレディー(中谷美紀)」などの映画音楽を手がけ、レオマワールド、鎌倉シネマワールド等の音楽監督、Jリーグ・清水エスパルス公式応援歌、テレビ、ラジオのコメンテータ、エッセイスト、そしてアーティストと幅広く活躍中。
2002年、静岡県文化奨励賞を受賞。2003年、第58回国民体育大会・NEWわかふじ国体の式典総合プロデューサー就任。
★公式サイト
http://www.samurai-music.com/


【おもな提供楽曲】
・杏里
「悲しみがとまらない」

・稲垣潤一
「思い出のビーチクラブ」

・上田正樹
「悲しい色やね」

・松原みき
「真夜中のドア〜stay with me」

・竹内まりや
「September」
「二人のバカンス」

・菊池桃子
「BOYのテーマ」
「もう逢えないかもしれない」
「雪に書いたラブレター」
「卒業」その他シングル全曲

・郷ひろみ
「スターダスト・メロディ」

・杉山清貴&オメガトライブ
「ふたりの夏物語」
「君のハートはマリンブルー」
「SUMMER SUSPICION」
その他シングル全曲

・原田知世
「愛情物語」
「天国にいちばん近い島」

・中森明菜
「北ウィング」

・松本伊代
「サヨナラは私のために」
「信じかたを教えて」

・松田聖子
「真っ赤なロードスター」
「LET'S BOYHUNT」

・美空ひばり
「背中」
「ワルツを踊らせて」
「孔雀の雨」

・和久井映見
「抱きしめたいのはあなただけ」

・河合奈保子
「デビュー−Fly Me To Love−」
「ラヴェンダー・リップス」

・堀ちえみ
「稲妻パラダイス」

歌謡曲・ポップスに触れた少年時代 加山雄三さんの影響で曲作りを始める
音楽との接点は、子供の頃に年の離れた兄からレコードでアメリカのポップスを聴かされたのが最初だと思います。ちょうど、「テネシー・ワルツ」(江利チエミ)のような洋楽を日本語に訳して歌う“和製ポップス”が流行り始めた頃でした。
ラジオで耳にしたフレーズを家にあったオルガンで弾くこともあったので、自然と音感が鍛えられたような気がします。

意識して音楽を聴くようになったのは、ラジオの洋楽番組でクリフ・リチャードの人気が出始めた頃かな。友達にギターを借りて、楽譜を買って一生懸命に練習したのを覚えています。ポップスだけじゃなくて、父が好きだった三橋美智也さんや美空ひばりさんの歌謡曲も歌詞を自然に覚えるまで繰り返し聴いて、歌ってました。当時から歌声とバックの演奏が一体となったサウンド全体に耳が行っていたから、根っからの音楽人間なんでしょうね(笑)。

自分で作曲をしてみようと思ったのは、加山雄三さんの影響です。ビートルズも大好きでしたが、海外のバンドなので自分が同じようなことができるとは思えませんでした。憧れはあっても、マネをしようと思うようなリアリティがなかったというか。バンドを率いて自分が作った曲をカッコ良く歌う加山さんの姿をテレビで見た時は、体の中を電流が走るようなショックでしたね(笑)。「自分もひょっとしたら、ポップスのメロディを書くことができるかもしれない」って思うようになりました。


シンガー・ソングライターとしてのデビューがきっかけでアレンジャーとしてスタート
20歳になった頃に、本格的に音楽を勉強しようと思って、ヤマハが主催する音楽スクールに入りました。僕が在籍した作曲・編曲を学ぶコースには、後に第一線で活躍する編曲家の萩田光雄さん、船山基紀さん、歌手の大橋純子さんなど、そうそうたる顔ぶれが集まってたんです。バンドで洋楽のコピーをするだけでなく、音楽理論もしっかりと学ぶプロフェッショナル志向の集団でしたね。ちょうど、日本の音楽界も歌謡曲から言葉通り“ニュー・ミュージック”にシフトしていく時期だったと思います。

ヤマハで音楽雑誌の編集などに携わった後、1973年にシンガー・ソングライターとしてレコード・デビューをしました。デビュー前は、「レコードさえ出せればヒットするだろう」みたいな図々しさを持っていましたが(笑)、デビュー1年もしないうちにセールスが不振で厳しい現実に直面することになります。当時は、相当落ち込みましたね…。でも、幸運なことにアルバムを聴いた音楽出版社やレコード会社のプロデューサーが僕のメロディセンスに注目してくれて、アレンジの仕事を依頼されるようになりました。

不思議なもので、実績のあるプロデューサーや作曲家の方々と仕事をすると、周りの目も「コイツには何かあるかもしれない」という風に変わって、次から次に仕事が舞い込むようになるんです。「ほんとに僕の作品を聴いたことがあるんですか?」って聞きたくなる位、劇的に環境が変わりましたね(笑)。でも、アレンジャーは、肉体的・精神的にとても厳しい仕事です。スタジオに入ると、キャリアのあるミュージシャンに指示を出すことも多かったので、言葉遣いにも気をつかいましたし、徹夜明けですぐ次の仕事に取りかかるみたいなことも度々ありましたしね。「同じように神経をすり減らすなら、作曲の方がいいかな」と思い始めるようになりました。


作曲家としての活動を本格化〜色に例えると、「中間色」が僕の個性
作曲家として駆け出しの頃、“スカイ・ハイ”のヒットで知られるジグソーというイギリスのバンドに曲を提供し、英米のヒットチャートでランクされたのは、大きな自信になりましたね。アメリカで主流だった楽曲主導型のシステムを取り入れようとしていたパシフィック音楽出版(現:フジパシフィック音楽出版)が僕に興味を持ってくれたことがきっかけだったんです。海外アーティストに提供するために書いた2〜3作品の中で “If I Have To Go Away”という曲が、MIDEM(音楽の国際見本市)でジグソーのプロデューサーの目にとまり、1年後にレコード発売されました。

現在までに、約1500曲を書きましたが、僕は時代に常に対峙して答えを出すヒットメイカーではないと思っています。ヒットを連発した1980年代前半から後半にかけて、僕のキャラクターと時代が求める音楽がうまく合致しただけなんじゃないでしょうかね。
色に例えると、「中間色」が僕の個性なのかな。例えば、明るくノー天気な曲や悲しみにくれる曲よりも、明るさの中に哀愁が漂っていたり、悲しみと共に冷めた憂いを感じさせるような作品。そうした微妙な雰囲気を表現するために、コード進行に凝った曲を作ることもあります。

思い出深い仕事は、杉山清貴&オメガトライブや菊池桃子の作品です。特に、菊池桃子は、“ラ・ムー”というユニットを結成するまで全シングル、アルバムに関わりましたからね。それまで、アイドルの曲は単調なものが多くて、あまり好きになれなかったんです。アイドルの場合、歌唱力への配慮から音域の幅がすごく狭かったり、踊りの振付用にやたらブレイクが入ったものが多かったんですよ。だから、プロデューサーと話をして、菊池桃子の場合はオメガトライブと同じように、メロディがしっかりした作品を作ることを決めました。アルバムや曲のコンセプトに合うように、レコードのジャケットも本人のアップ写真ではなく、海の上で横たわっているようなデザインだったと思います。単に曲を提供するだけではなく、新しいアイドルのスタイルを作ることができた仕事でしたね。



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Present
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で3名様に林さんのサイン入りエッセイ集「歌謡曲」をプレゼントいたします。
応募締切日:
2004年3月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。



林哲司
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