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有機栽培のマスタリングを目指して。

小鐵徹さん / マスタリング・エンジニア/カッティング・エンジニア

(2022年4月公開)

「海の向こうでは“何か”している」。それがマスタリングだった

愛用のカッティングマシンに載せられたラッカー盤。
照明手前の顕微鏡で溝に
不具合がないか精緻に確認する

 私が1973年、日本ビクター(現JVCケンウッド・クリエイティブメディア)の横浜工場に配属された頃は、音を緻密に整える「マスタリング」の概念がありませんでした。海外から届いた洋楽のマスターテープに“手を加える”なんて言語道断だったんです。「テープは神様だと思え」。上司からはそう教わりました。

 私が最初に手掛けた作業は「カッティング」です。マスターテープの音源を、音量などを調整する「卓」(コンソール)を通して、ラッカー(樹脂)が張られた円盤に刻んでいくのです。それがアナログのレコードをプレスする際の“原盤”の基になります。大きい音を刻むには針の振幅に応じた相応の“溝の幅”が必要です。ただ幅に余裕を持たせっぱなしだと円盤に複数の音楽を収められない。溝の幅を節約するためにマスターテープの音量を下げると音に迫力が出ない。個々の音楽が持つ固有の音量や時間に応じて、溝の間隔を調整していました。ところがそれだけでは足りなかったのです。

 ある日、国内盤と輸入盤の音を聴き比べた社員が「音が違う」とクレームを寄せてきました。同じマスターテープからプレスしたはずの国内盤が何だか“しょぼい”のです。「海の向こうではカッティングの前に“何か”しているな」と。それがマスタリングだったんです。

「翻訳者」になったつもりで

 「神様にお化粧しなければ」という動きが会社に生まれました。でもマスタリングの経験者はいません。私は誰よりも昼食を早く終えて、昼休みに視聴室にこもり、自分が買ってきた輸入盤と国内盤の聴き比べを重ねました。そのうち、A&Mレコードのアルバムに「かっこいいなあ」と感じる音が多いことに気が付いたんです。エンジニアが誰なのか確認すると同一人物でした。バーニー・グランドマンという人です。この人は私の生涯の心の師匠になりました。

 「バーニーの音に近づきたい」。暗中模索で卓をゴリゴリいじりました。音量とは異なる「音圧」、音の伸び、残響音や音色の微細な違いなどで音のイメージが変わります。この時に身に付けた数々の「引き出し」で音楽を“翻訳”できるようになっていきました。バーニーには、彼が横浜工場に立ち寄ってくれたときに会うことができました。「あなたの音を追いかけてきたんですよ」と今の自分を築いてきた憧れの気持ちをしっかりと伝えることができました(笑)。

 アーティストからはマスタリングの立ち会いの際、さまざまな要望を受けます。その表現は多様です。それを具体的な操作に瞬時に“翻訳”しなければなりません。フラットな状態を示した後で、要望に応じてABCといろんなパターンを聴いてもらう。「Bでもうちょっとこうできないか」と言われるとBダッシュ、Bツーダッシュなどと翻訳を重ねていきます。瞬時に操作できるのは、暗中模索での苦労の結果でもあり、イメージを実現できる機材を製作・調整してくれたハードのエンジニアのおかげでもあります。

有機栽培で育てる音

 私が使っている機材は、最初は海外から評判の良いものを取り寄せていました。そんなある日、レコード事業部のトップが視察に来たんです。同僚たちが緊張している中、私の上司が鼻高々に機材の説明をしてくれました。しかしそのトップは「そんなのはお金を出せば誰でも揃えられるのでは?ビクターのオリジナリティはどこにあるの?」と。その一声で、エンジニアたちの大きな目標ができました。互いに切磋琢磨して、機材の改良や組み合わせの工夫などに精を出し、自社にしか出せない音を目指したのです。

 私は、どのようなリクエストにも応えられるよう“素の音”のクオリティを高めてマスタリングに備えています。新しい機材を際限なく積み重ねて刺激的な音を作りがちですが、電源やケーブル一つひとつ、結線などの相性を確かめながら、ピュアで自然な音を保てるよう、言わば「有機栽培の素の音」を育んで、普遍的な音の気持ち良さをつかめるよう努めています。

ランタンとろうそく

 余談ですが、高音質のCDに「xrcd」という規格があります。これは音質にこだわる「ハイエンドユーザー」「マニア」向けの製品として、マスタリングから工場のプレスまで特別なラインを設けて生産するものです。その時のマスタリングでは、スタジオの空調、照明類を消して作業しています。xrcdの場合、空調、照明類の電気系統が発する微量のノイズが、音の波形に極めて僅かに影響を与えるようです。最初にテスト録音で、一カ所だけやむなく手元の照明を点けて作業したのですが、その結果の“違和感”を聴き分けたお客さんがいた。xrcdの発注主でした。「いつものxrcdではない」と。これには驚きました。

 それからは、ランタンの灯りをもとに作業しています。定番は灯油式で、その方がカッコよいのですが、会社が許してくれません。消防法が何とかと言って(笑)。最近、レコーディング・エンジニアの宮島哲博さんがアメリカでマスタリングしている光景を写真で見せてもらったのですが、ろうそくを灯して演奏していました。その理由を聴いてみたいですね(笑)。

Profile
1943年、岡山県新見市生まれ。1973年日本ビクター(現JVCケンウッド・クリエイティブメディア)のマスタリング部門に配属。以降、マスタリング・エンジニア、また国内で数人しかいないカッティング・エンジニアの一人としてアナログレコードやCDの制作に従事。これまで井上陽水、細野晴臣、坂本龍一、八神純子、山下達郎、岩崎宏美、サザンオールスターズ、THE BLUE HEARTS、Original Love、LUNA SEA、斉藤和義、Dragon Ash、MISIA、くるり、秦基博など数多くのアーティストを担当するほか、海外JAZZの名盤の再発など、CD、レコードを合わせて1万1千作品以上のマスタリングを手掛けている。2018年、一般社団法人日本オーディオ協会 第23回「音の匠」を受賞。

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