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音楽は身分や人種、時代や国家をすべて取り払えると信じています。

有田正広さん / 古楽フルート奏者

(2022年1月公開)

音楽が持つ一体感、浸透力

©Rika Takei

 まだ20代の頃、ドイツのコレギウム・アウレウム合奏団(古楽器オーケストラの草分け)の一員として、モーツァルトのクラリネット協奏曲をスペイン・バルセロナの教会で演奏していた時のことです。気が付いたんです。貧しい身なりの半裸の子どもが、講壇(聖書台)のらせん階段によじ登って聴き入っているのを。第二楽章のアダージョに入ると感極まった様子でした。泣いているのです。私の目配せで団員が互いに気づき、やがて弾きながらもらい泣きをし始め、それに驚く礼拝堂の観客たちにも伝播していって。異変に気が付かないのは、必死にソロを吹くクラリネット奏者だけ(笑)。演奏がどんどん“神がかっていく”体験をしました。ステンドガラス越しに光が射す光景の中で、理屈で測ることのできない音楽の力、一体感、浸透力を感じました。同時に音楽は、身分や人種、時代や国家をすべて取り払えるのだと信じるようになりました。

待ち遠しかった『メヌエット』

 1949(昭和24)年、私は都内、港区の青山で産まれました。今と違ってファッションビルはなく、戦後間もないバラックのような平屋が軒を連ね、道も空も広かった(笑)。やがて千代田区に移り、九段小学校に通うようになりました。その頃です。夕日が射す校庭で、ビゼー『アルルの女』からの『メヌエット』を聴いていたのは。私も泣いていたんです。

 音楽好きだった私の祖父は、近所で医院だけでなく「音楽道場」まで開いていました。そこで習った伯父が、趣味で幼い私にヴァイオリンを弾いて聴かせていたんです。SPレコードもかけてくれました。軍艦マーチや美空ひばりの流行り歌、長唄、江戸端唄、シャンソン、ジャズ…。伯父のおかげで音楽に親しめました。そんなある日、学級委員の説明会で校内に残っていると、下校時刻を知らせる『メヌエット』がチャイムの後に流れてきました。

 衝撃でした。何だろう、この気持ち。甘いものを食べたり、戦車の模型を手にしたりしたときの喜びとも違う。体が震え、涙が溢れてきました。友だちと別れて校庭で独り待つようになりました。手持ち無沙汰で鉄棒にぶら下がったりしながらね。あのメロディーが流れてくると、感情が高ぶり、いつしか声を上げて泣くようになりました。

木管フルートとの出会いと再会

有田さん愛用のフラウト・トラヴェルソ

 やがて、主旋律の音色がフルートと知り、図鑑で調べました。でもどこで売っているのか見当がつかない。ある日、意を決して、薄気味の悪い骨董屋を訪ねました。見つけたのは柘植(つげ)でできた木管のフルート。店の主人もそれが何か分からない。「木だからフルートじゃないよね。リードがないからクラリネットでもないし」。それが、「フラウト・トラヴェルソ」(フルートの古楽器)だったのです。

 トラヴェルソとの再会には10年近くを要しました。中1で念願の金管フルートを手にし、師事した林りり子先生の指導で、ベネデット・マルチェッロの楽譜を手に入れ、そこに記された彼の生没年「1686〜1735年」を見た瞬間、気の遠くなるような時代とあのほこりを被った木の楽器が結び付きました。骨董屋にはすでにありませんでしたが、音大に進学するまでトラヴェルソは私の心を離れませんでした。

破門を機に古楽三昧

年代物の貴重な楽譜を納めた書棚

 林先生が教える桐朋学園に進学しましたが、最初の講義で破門を言い渡されました。その破門が私を古楽に進ませました。原因はバッハの楽譜です。今では研究が進み、装飾音などを示した「原典版」が知られていますが、当時は注目されていませんでした。にもかかわらず、私はマルチェッロの楽譜に触れて以降、楽聖たちの創作の背景や意図、当時の楽器に思いを馳せることを楽しんでいたのです。音大に合格すると、受験で封印していた文献の読み漁りを再開し、その勢いで先生に「実はここ違うんですよ」と研究の成果を披露したのです。

 ところが林先生をはじめ当時の音楽家たちは原典版で育ったはずもなく、「解釈版」の「解釈」が身を縦に貫いていたんですね。中世の異教徒を見るような目でたしなめられましたが、「バッハの意に忠実に演奏すべきでは」と口答えしてしまいました。結果、破門でした。途方に暮れた私は「音楽学」の先生が集う休憩室や大学の図書館に通うようになったのです。「古楽に興味?笛吹きが?」と教授に珍しがられ、世話好きの先輩・司書にも可愛がられました。特別に、貴重な文献、古書が息をひそめる閉架室への入室を許されました。

コンクールで優勝し、妻と渡欧

 卒業前、同窓の妻とは将来を約束する仲に。でも若輩の私には相手の親を説得する武器がない。そんな時、NHK・毎日音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)を迎えました。当時4年に1度、記念すべき第40回。身を立てる決心で挑みました。「トップ通過よ」。1次予選の結果を審査員の一人だった林先生が、不肖の弟子である私に教えてくれました。でも「2次予選を通過するには、私の指名する人を伴奏者に」と。

 「伴奏者をもう決めています」。ここでも林先生に楯を突きました。信頼できる妻と二次予選に臨みたかったのです。当然はねつけられました。父親に憂さ晴らしすると「馬鹿者っ、出ていけ」。仕方なく彼女の元へ。「意地を張らないで」と説得され、林先生に電話すると「すぐ来なさい」。NHK交響楽団の本荘玲子さんを紹介され、以降、特訓の日々。おかげで優勝できました。桐朋学園での優勝者は私が初めてでした。

 林先生には感謝しています。今では問題視されるスパルタ教育でしたが、音楽家としての覚悟を身に付けさせる意図だったようです。その影響か、私は先生の用意した卒業後のプランを手放し、妻と渡欧する道を選びました。来日していたベルギー古楽界の名手・クイケン3兄弟のうち、末弟の古楽フルート奏者、バルトルト・クイケンと意気投合し、弟子入りの了解を得たのです。彼のプライベートレッスンではビザが下りないため、秘策として、ベルギーのブリュッセル王立音楽院に進みました。彼の地で存分に古楽を研究し、腕を磨きました。

音楽の学びと感動を母国に還元

クリスタルの表彰盾を持つ有田さん

 ブルージュでの国際音楽コンクールでも優勝した頃、古楽学科を新設する桐朋学園が「戻ってこい」と。同科の新設は世界でまだ数例しかなく話題でしたが、ベルギーの王立ゲント音楽院の教授に招聘(しょうへい)されることが決まっていたため悩みました。決め手は母親でした。冒頭にお話ししたコレギウム合奏団の一員として一時帰国した際、久しぶりに会った母が弱っていました。それを見て母国で古楽に勤しもうと決めました。これも自分の夢の実現でした。

 後進を育てながら楽団に籍を置く。これは林先生の願いでした。存命中に叶えられなかったのは残念です。「日本でも古楽器の演奏が広がればどんなに素晴らしいだろう」。夢の実現に動きました。作曲家が生きた時代、どんな背景でどんな音が鳴り響いていたのか、自分がつかんだ音楽の学びと感動を一人でも多くの日本人に伝えたい、そういう思いでした。現在もその思いは変わりません。

 今72歳です。あと15年、生きながらえさせてもらえるなら、今さらですが、大好きなモーツァルトとシューベルトを、今度は現代の金管フルートで録音に収めたいのです。前者は『フルート協奏曲』、また『フルートとハープのための協奏曲』、後者は『アルペジョーネソナタ』です。今でさえスタジオでのレコーディングには身体に支障を来していますが(笑)。

Profile
1972年、桐朋学園大学を首席で卒業。同年、第40回日本音楽コンクール第1位を獲得。翌年、ベルギーのブリュッセル王立音楽院に留学。1974年からはコレギウム・アウレウム合奏団のメンバーとして活動。翌年、ブリュッセル王立音楽院をプルミエ・プリで卒業し、ブルージュ国際音楽コンクールのフラウト・トラヴェルソ(古楽フルート)部門第1位を獲得。1977年、オランダのデン・ハーグ王立音楽院に進み、半年で最高栄誉賞つきソリスト・ディプロマを取得。1989年、東京バッハ・モーツァルト・オーケストラを結成。2009年、クラシカル・プレイヤーズ東京を結成。1985年、文化庁芸術祭賞芸術作品賞、1989年、第21回サントリー音楽賞、2017年、第30回ミュージック・ペンクラブ音楽賞クラシック部門特別賞をそれぞれ獲得。現在、桐朋学園大学特任教授。第8回JASRAC音楽文化賞受賞。

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