父親への反発心から音楽の道へ

 僕の父親は、「椰子の実」や「卒業式の歌」など、多くの曲を作曲した大中寅二です。幼少の頃、僕の家には、父親の弟子として作曲家を志望する若者がたくさん転がり込んでいました。楽しそうに作曲の勉強をする彼らを見て、僕も自然と音楽家になりたいと思うようになったのです。しかし、父親は僕が音楽家になることには反対していました。音楽自体というよりは、親と同じ仕事をする“二代目”というものに否定的だったんですね。僕が楽譜を見ていると、いつもそばで「ばか野郎、まだそんなことやっているのか」なんて言う父親でした。僕も負けん気が強いので、そう言われると「こんちくしょう!」と逆にピアノの練習に精を出す。そんな少年時代でしたね。

 父親は、僕が聴く音楽に対してもとても厳しく、父親自身の曲と、父親の先生だった山田耕筰さんの曲しか聴かせてくれませんでした。母親は音楽家ではありませんでしたが、僕が音楽をやることについて応援してくれていたので、お願いするとこっそり好きなレコードを買ってきてくれました。でも、それを聴いているのが父親に見つかると、「そんなもの聴いていても何にもならない」と言って、レコードをバーン!と割られてしまうのですよ。だから自分の好きな曲は、こそこそと隠れて聴くしかなかったですね。

父親について聞かれると、どうしても「嫌な父親だった」という話になってしまうのですが、今考えてみると、自分が音楽家をやっているのは、父親への反発心からなのかもしれません。やはり感謝しなければなりませんね(笑)。

神様に喜ばれる音楽を創作するために

 僕の母親はクリスチャンで、父親は作曲家をしながら教会でオルガンを弾いていました。そういった背景もあり、僕自身も幼少の頃からよく教会に出入りしていました。

 僕は父親の伴奏のもと聖歌隊で歌っていたのですが、その聖歌隊にとても素敵なソプラノの女性がいました。僕には兄弟がいなかったので、その方はお姉さんのような存在でした。父親から音楽の道に進むことが許されないのであれば、クリスチャンとして牧師か伝道師になろうと思っていた僕は、自分の進む道ついて彼女に相談してみました。すると、その方は「そういった仕事だけが神様に仕えることではありません。あなたはむしろ自分の好きな音楽の道に進んでこそ神様に喜ばれる」と言ってくださいました。その言葉を聞いたときに、「よし、音楽だ」とすぐに決断することができたのです。このエピソードが、僕が音楽の道を 進もうと決めた大きな理由ですね。今でいうと中学3年生のときです。父親に「俺は音楽をやることに決めた」と宣言すると、「ああ、そうか」とあっさり認めてくれたので逆に少し拍子抜けしてしまいました。今思うと、あの時に父親は僕を初めて音楽家として認めてくれたのかもしれません。

「声の音楽」に魅力を感じて東京音楽学校に

 僕は「声の音楽」に魅力を感じます。楽器をやっているうちに楽しくなって作曲家の道に進んだという方もよくいますが、僕は人の声を活かす音楽を作りたかったのです。中学を卒業して東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学しました。入学試験の少し前に、柔道で左手を骨折してしまったのですが、何とか合格することができました(笑)。東京音楽学校では、声楽曲ばかりを勉強していましたね。「声の音楽」への想いは、今も全く変わっていません。

 東京音楽学校に入学して、これで音楽の勉強に専念できると思っていたのですが、当時は第二次世界大戦中で、学徒出陣で海軍に召集されました。僕は陸軍の黄色い服を着るのがどうしても嫌で、海軍の予備学生だった先輩が時々帰ってきた時に見た制服がかっこよかったので、海軍を志望しました。当時、「陸軍に入ると上官から殴られる」という話を聞いていたのですが、海軍でもそれは同じでした(笑)。寒い季節になると、「気合を入れてやる、歯を食いしばれ」なんて言われて一人ずつ殴られていくわけです。でもそういった生活は、自分には割と合っていて、軍隊の経験で自分がたくましくなったような気がします。僕は実家を出たことがなかったから、父親から「お前はよその飯を食ったことがない」とことあるごとに言われていました。父親はそういったことを言わなくなったので、これだけでも随分楽になりましたね。戦争からの帰還後は、東京音楽学校に復学し、卒業しました。

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