作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー
湯山 昭 Akira Yuyama

プロフィール
1932年9月9日、神奈川県平塚市生まれ。県立湘南高校を経て、東京藝術大学音楽学部作曲科入学。在学中、第22回日本音楽コンクールで「ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ」が第1位次席、第23回の同コンクールで「弦楽四重奏曲」が第2位入賞。「おはなしゆびさん」「あめふりくまのこ」に代表される童謡のほか、ピアノ曲集「お菓子の世界」「音の星座」、合唱曲「葡萄の歌」など、数々の名作を世に送り出している。
1970年に合唱曲「コタンの歌」で文化庁芸術祭大賞。1973年、1976年に日本童謡賞。1993年に第5回サトウハチロー賞受賞。2003年旭日小綬章受章。
1955年9月12日からJASRACメンバー。2001年から2007年までJASRAC評議員会議長を務める。2001年より日本童謡協会会長。2014年11月、JASRAC永年正会員表彰。
 
主な作品

【童謡】
■あめふりくまのこ
■おはなしゆびさん
■山のワルツ
■おはながわらった
■かもつれっしゃのうた
 
【ピアノ曲集】
■お菓子の世界
■こどもの国
■日曜日のソナチネ
■ピアノの世界
■音の星座
 
【合唱曲】
■小さな目
■葡萄の歌
■コタンの歌
■向日葵の歌
■日本のこども

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自作の歌を歌っていた幼少期
 私は神奈川県の平塚で生まれました。父は海軍の軍人でしたが、私が2歳の時に病気で亡くなりました。ですから父の顔を知らないのです。祖父と母、私の3人暮らしで、小学2年生までは祖父を父だと思っていました。その祖父も、私が小学3年生のある日、事故で突然亡くなり、それから結婚するまでずっと母と二人暮らしでした。
 母は、小学校の教師をして家計を支えていました。毎日勤めに行きますから、私は小学校から家に帰っても一人ぼっち。そうして一人で庭遊びをしている間に、メロディを自分で作って歌うという楽しみができたのです。家の玄関前にあった大きな木に登り、枝ぶりのいいところに腰かけ、自作の歌や流行歌を歌っていました。この孤独な幼児期の体験が、大人になってから童謡をたくさん書くことにつながったのかもしれません。
ピアノを習い始める 〜クジラのようなグランドピアノ〜
 ピアノを習い始めたのは小学4年生の時です。母が受け持っていたクラスの子のお母さんがご自宅でピアノレッスンをされていたので、歌が好きな私に母が勧めてくれたのです。先生のお宅で初めてグランドピアノを見た時は、クジラのような形に驚きました。それでピアノを習うことになったのですが、自宅にピアノもオルガンもないので、小学校の音楽の先生に頼んで、授業後に学校のオルガンを弾かせてもらっていました。自宅での練習はどうするのか母に相談したら、「バイエル教則本の裏に紙の鍵盤が付録でついているから、それを広げてお稽古すれば」って(笑)。
 レッスンを始めてふた月位して、他の生徒さんと一緒に横須賀の海軍病院に慰問に行くことになりました。傷病兵の方たちで満員の音楽会で弾いた曲が、モーツァルトの「メヌエット ヘ長調 K.2」です。そこでミスなく、とても上手に弾くことができたのです。先生にも褒められ、それからはもっと熱心に取り組むようになり、8カ月位でバイエルを終えました。
 グランドピアノを弾けるのがうれしくて、先生のお宅には毎週通っていました。大雪が降った日も、1キロ半の片道を歩いて行きました。雪の中を歩いて行くとレッスンはお休みで、美味しいおしるこをごちそうになりました。戦時中で甘いものはごちそうでしたが、その時もおしるこをいただくよりピアノを弾きたかったですね。
中学校で管楽器、弦楽器を体験
 終戦の年(1945年)に藤沢の湘南中学校に入学しました。入学式で校長先生が「平和な時代に入学していたら大福を配っていたけど、戦争中で大福はないから、代わりに音楽の贈り物をする」と仰って、ブラスバンドの演奏があったのです。その時に初めて吹奏楽を聴いて、ピアノとは違った面白さがあると思い、吹奏楽部に入りました。小柄で自己顕示欲が強い私は、トロンボーンを選びました。トロンボーンはスライドが伸びたり縮んだりするので、中にいると隊列が乱れるため、行進では一番先頭なのです。パレードで先頭を歩いているときは気持ちよかったですね。トロンボーンは面白かったのですが、中学2年生頃になると、段々とピアノへの興味が戻ってきました。ピアノと二重奏ができる自分の楽器が欲しくなり、父の形見の麻雀牌を古道具屋に売って、安いヴァイオリンを買いました。親友の鈴木君がヴァイオリンがうまく、彼と一緒に藤沢までレッスンに通っていました。この時のレッスンが、後に芸大の副科でヴァイオリンをやることに繋がっていきます。
 中学に入学した年の7月、平塚は大空襲を受けました。私と母は公園に避難したのですが、近くに落ちてきた焼夷弾が地面に突き刺さり、辺りは火の海に。死を覚悟して、B29の爆音が遠のくまで母とじっと腹ばいになっていました。終戦ひと月前の忘れられぬ体験です。
高校3年生から始めた受験勉強
 高校生になると、ピアノを弾きたい気持ちはますます強くなり、合唱部に入りました。指揮者も任され一生懸命打ち込んでいましたが、高校3年の5月、文化祭の直前に、クラス担任の先生に呼ばれ「君以外の生徒は志望大学を決めていて報告している。君はまだ大学を決めていないようだが、音楽に夢中になっているようだから、お母さんを文化祭に連れてきて、音楽の鏑木 欽作先生と相談なさい」と言われました。文化祭に母がきて、音楽室で鏑木先生と二人で、遅くまで話をしていました。後で知ったのですが、先生は私に東京藝術大学の作曲科を受験させるよう、母を粘り強く説得していたのです。母はその熱意にとうとう根負けし、一度だけならと受験を認めたのでした。
 私は、将来作曲家になるとは夢にも思っていなかったので、自分に芸大を受験する資格はないと思いました。経済的にも余裕がない家庭でしたし、受験曲や他にも課題があるのに、高校3年の5月まで何の対策もやっていなかったのですから。
 それでも早速、鏑木先生のご子息の鏑木 創さん(「銀座の恋の物語」の作曲者)を通じて受験のための先生を紹介して頂きました。それが池内 友次郎先生です。紹介状を書いてもらい、先生のご自宅でレッスンを受けることになりました。受験勉強は大変でしたよ。他の受験生は、何年も前からピアノや聴音の練習をしていたのに、私は何もやっていなかったのですから。先生の書いた「和声法講義」がテキストでしたが、和声法の勉強なんて初めてでしたし、和音進行の意味が分からないので課題を与えられても回答は滅茶苦茶。しかも、先生はあの高浜虚子の息子さんですから文章も漢文調で難しい。6月から10月までの5カ月間、レッスン内容の意味が分からず、生き恥をさらすような感じでした。

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