作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー
神尾 憲一 Kenichi Kamio

プロフィール
イタリアの作曲家ニーノ・ロータに影響を受け、早くから独学で作曲家を志す。上京後、ラウンジピアニストとして活動するほか、ラジオCMやイベント等の作曲を行う。その後、映画音楽でのメロディアスなフレーズが評判となり、映画『餓狼伝』(1995年、佐々木正人監督)、『喧嘩の花道』(1996年、三池崇史監督)、『鬼火』(1997年、望月六郎監督)、『クリスマス・イヴ』(2001年、雑賀俊郎監督)、日本・香港合作映画「THE SNOW」(2002年、黄分雲(ウォン・マンワン)監督)、台湾・中国・日本合作映画『幻遊伝』(2006年、チェン・イー ウェン監督)などで音楽を担当。テレビアニメでは、『救命戦士ナノセイバー』、『バーバパパ世界をまわる』、『サラリーマン金太郎』など。他にゲーム音楽なども多数手掛ける。
一方、島崎藤村の一連の詩をピアノのシンプルなメロディにのせて源川瑠々子が歌う「初恋」、「銀河」を発売するなど、幅広い活動を行っている。2008年には島崎藤村ゆかりの地である長野県各所、東京は三越劇場で行われたリサイタル「藤村の初恋」にピアノ演奏で出演。繊細なピアノの演奏においても好評を博す。
源川瑠々子を起用したひとり文芸ミュージカル「静−shizu−」では、音楽のみならず、脚本、演出も担当し、2006年6月にタイでの海外公演を成功させ、同年11月14、15日には東京日本橋三越劇場にて凱旋公演を行った。2010年には、ひとり文芸ミュージカル「静―しず−、もうひとつの、こころ」が三越劇場にて待望の再演。
児童向け音楽でも心に残るメロディーには定評があり、三越劇場ファミリーミュージカルの音楽や、東映アニメVキッズシリーズ、サンリオ「ぽこあぽこ」シリーズなども手がける。

1992年12月1日よりJASRACメンバー。
2011年「バーバパパ世界をまわる」にてJASRAC賞国際賞受賞。

神尾 憲一さん公式サイト
http://www.lightlink.co.jp/kamio/

公演情報
夏目漱石 「吾輩は猫である」原作 : 『ひとり文芸ミュージカル 三毛子ーみけこー』
脚本/スミダガワミドリ
音楽・演出/神尾憲一
主演/源川瑠々子
ピアノ/神尾憲一
神尾憲一プロデュース。
夏目漱石原作「吾輩は猫である」に登場するヒロイン猫「三毛子」の目線を通して、明治の女流文化人達が女性解放運動を訴え続けたその生き様と、数々の名言を散りばめながら、涙あり笑いありのあたたかく微笑ましい、愛情たっぷりのオリジナルミュージカル。
日時:2012年3月5日〜3月13日
各公演 午後2時開演
場所:三越劇場
全席指定 5,000円
http://www.maruru.net/mikeko/
リリース情報
『Tomorrow』/RoseLove
2011年11月29日配信リリース。
「アニー」の名曲をテクノポップバージョンとしてリアレンジ。
詳細はビギナーズレーベルHPへ。
http://www.lightlink.co.jp
/beginners/
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独学で作曲をはじめた中学一年――当時から職業意識が高かった
僕は北茨城の磯原出身ですが、いわき市から引っ越したこともあって、いわきの学校に通っていました。家は豊かではなかったのですが、小さい頃から音楽は大好きでしたね。母親が音楽好きだったんです。でも、離婚して家を出て行ってしまって、その時に置いていったレコードがたくさんありました。母親の思い出とレコードがシンクロしていたのでそれらのレコードをとても大切にしていましたね。色々なレコードがありましたが、なかでも映画音楽のレコードを繰り返し繰り返し聴きました。また、父親が友人とよく家で飲んでいましたので、そんな知り合いのおじさんたちから弾かなくなったギターやフルートもらったりしました。おじさんたちがよく面倒をみてくれたので、家が貧しいのにフルートが吹けたんですよ(笑)。映画音楽にはまっているころにそういう環境があったことは大きかったですね。
作曲は中学1年頃から、まったくの独学で始めました。貧乏ですから職業意識は高かったですよ。将来何でご飯を食べていくかっていうことばかり考えていて、最初から作曲家になろうと思っていました。映画音楽家になりたかったんです。特にイタリアの作曲家ニーノ・ロータが大好きで彼の映画音楽に憧れていたので、ニーノ・ロータみたいな曲を、あれよりいい曲を書きたいと思っていました。でも、書けなくて毎日泣いていましたね。

独学で?ってよく言われますけど、小学校の音楽の授業を習えば普通のソナタ形式の作曲くらいはできます。まあ、お勉強から入ると音楽書くのは大変ですけど、僕はまずレコードを聴いていて、表現したいっていう気持ちが強かった。最初は全然曲としてなってなかったと思いますけど、毎日頭に浮かんできてしまうんですよ。1日10曲くらい書いていました。作った瞬間はいい曲できたかなって思うんですけど、翌日になるとガッカリ。自分でグッとこないんですね。それで泣いていました。今でもその時に作ったメロディーは頭に残っています。数年前に音楽を担当した「のりものビデオ図鑑」のエンディング曲は中学1年の時に作った曲です。その商品を購入する世代の気持ちにはもう戻れないじゃないですか。だから、自分がその世代だった時に作った曲の方がいいだろうって思ったんです。
自信を与えてくれた先生との出会い
高校に入ってからも、音楽を続けていく上で、人には恵まれていましたね。奇跡的ですよ。高校では吹奏楽部でチューバを吹いていたんですけど、田舎では特に音楽に“熱い”人たちがいたんですよね。当時若かった先生が、今では指揮者として全国大会に出たりしています。指揮者の小林研一郎さんもいわき出身です。同郷にそういう方がいらっしゃるだけでも、刺激を受けますね。

高校に入ってからは、いつも楽譜を持って歩いて、実業家の方たちが趣味でやっている四重奏団に、僕が作曲した現代音楽の楽譜を持って行って、弾いてもらったりしました。でも、ブラームスとか弾きたい曲が決まっているところに、わけのわからない現代音楽を持っていったりするので、だんだん煙たがられてくるんですけど、弦の使い方や、奏法はそこで教えてもらいました(笑)。弦楽器がやりたかったので、高校のブラスバンドでは2年生の時にコントラバスをやらせてもらいました。そして、3年生からはティンパニを担当したので、木管・金管・弦楽器・打楽器をすべて経験することができました。

高校時代一番恵まれたのは、1年生の時の音楽の先生が僕のために音楽自習室を開放してくれたことです。僕がそれだけ音楽にのめりこんでいたので、この子にはピアノでもあてがっておかないと、将来とんでもないことになるんじゃないか、と思われたのかもしれません。すごく熱中していましたから。そんな僕の姿を見て、その先生が、東京の音大を出たばかりの作曲家の先生を紹介してくれたんです。それが、僕の師匠になる八矢浩先生でした。若くして亡くなられてしまったのですが、八矢先生が僕をすごく理解してくれたんです。僕の曲の価値を認めてくれました。八矢先生がいなかったら、僕は自信を得られなかったでしょうね。
八矢先生の所には、最初にフルスコアを持っていったので、とても驚かれました。先生も音大を出たばかりだったので、今思えば、先生自身が大学でちょうど学んできたぐらいのものを僕も作っていたんですよね。職業意識がすごく強かったので、そういう色気がいっぱいあってイヤな感じだったと思います。僕はストイックにプロになることしか考えていなかったので、自分の曲を気持ちよく演奏することではなくて、聴いている人がどうやったら気持ちよくなるのかということばかり考えていました。
ラウンジピアニストからファミリーミュージカルの世界へ
東京に出れば何か仕事はあるだろう、くらいに思って高校卒業後すぐに上京して、ラウンジピアニストをやりました。ラウンジでは、お客さんからリクエストされれば何でも弾いたし、歌いました。その合間に、自分の曲も弾いてましたけどね。お金をもらってリハーサルしているようなものです。でも、それはとても貴重な経験でした。お客さんの反応がダイレクトに分かりますから。

僕は、ラウンジピアニストをやりながらも作曲家になることしか頭になかったので、ラウンジで出会うVIPの方々に、「僕、作曲家になりたいんです」って言い続けていました(笑)。
ファミリーミュージカルの仕事はそこから始まったんです。ちょうど、三越劇場の企画担当者が、劇団の音楽を少しずつでも新しくしていきたいって思っていたところに、ラウンジで知り合ったある事務所の社長さんが僕を紹介してくれたんです。当時はレコーディングする暇も時間も、予算も無い時期だったんですけど、オーケストレーションされた曲じゃないといけないということで、事務所の社長が「神尾さん、ちょっと書いてみる?」って声を掛けてくれて。三越劇場は当時から一流の劇場だったので、すごいプレッシャーでした。胃が痛くなって、寝られなくなりましたね。だけど、物怖じしている場合じゃない。自分だけよければいいとかじゃなくて、とにかくお客さんにも、劇団にも喜んでもらえるものをと考えて、そのミュージカルのテイストになじむように1曲書きました。そしたら、それが通ったんです。それがきっかけで劇場への出入りが自由になりました。

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