作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー

宇崎竜童 RYUDO UZAKI
プロフィール
1946年京都府生まれ。73年、『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』を結成しデビュー。『スモーキン・ブギ』『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』などのヒット曲を生み出し、人気バンドとなる。81年の解散後は『竜童組』『宇崎竜童&R・Uコネクション with 井上堯之』を結成し、活躍。現在はソロとして活動中。また作曲家として、多数のアーティストへ楽曲を提供。夫人で作詞家の阿木燿子さんとのコンビで、山口百恵さんへ『横須賀ストーリー』『プレイバックPart2』など多数の楽曲を提供、百恵さんの黄金時代を築いた。最近では、ジェロが歌ってヒットした『海雪』を作曲。このほか、映画音楽や舞台音楽も担当。文楽とロックを融合させた『ロック曽根崎心中』、フラメンコ版『フラメンコ曽根崎心中』なども手がける。また俳優としても、テレビドラマや映画に数多く出演している。

1976年、『想い出ぼろぼろ』(歌唱:内藤やす子)で第18回日本レコード大賞作曲賞受賞。映画音楽では『駅 STATION』(81年公開)で第5回日本アカデミー賞最優秀音楽賞(なお同映画には俳優としても出演、優秀助演男優賞を受賞)、『社葬』(89年公開)で第13回同賞優秀音楽賞を受賞。舞台音楽では05年『天保十二年のシェイクスピア』(演出:蜷川幸雄)で2005年ミュージカル・ベストテン特別賞、06年『ロック曽根崎心中』と『天保十二年のシェイクスピア』で第13回読売演劇大賞優秀スタッフ賞を受賞。1980年9月からJASRACメンバーに。

宇崎竜童さん
オフィシャルwebサイト
http://ryudo.jp/

宇崎さんの最近の活動
CD
08年10月、デビュー35周年を記念し、アルバム2枚を同時発売。

「ブルースで死にな」
EPIC RECORDS ESCL 3115〜6


「Blossom-35th〜宇崎竜童ベスト・ソングス・コレクション」
ソニーミュージックダイレクト 
MHCL 1434〜5

映画音楽
「禅 ZEN」
(2009年1月公開、6月26日DVD発売)

横浜開港150周年記念映画『弁天通りの人々』(2009年5月公開) 挿入歌『夜明け』、エンディングテーマ『きっかけは港町』作曲

イベント
お茶の水JAZZ祭(09年10月開催)実行委員長

全国ナイスミドル音楽祭2009(09年11月決勝大会開催)実行委員長
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洋楽を聴いて育った子供時代、歌作りに熱中した学生時代
音楽に興味を持ったきっかけは、映画とFEN。小学校3年生くらいの頃から家族がよく映画館に連れて行ってくれたんですが、映画館の暗闇で聴く音楽は心に響きましたね。FENで聴いたのはエルビス・プレスリーとかのアメリカンポップス、ロックンロール。年の離れた姉が3人、兄が2人いて、彼らが好きだった洋楽を自分も聴いていた、いわゆるマセガキでしたね。教科書に載っている音楽は“学問”としか思えなくて、それより自分で音楽をやりたくて、映画を観た帰りに映画の音楽をスペリオパイプ(リコーダー)で吹いたりしていました。この頃に聴いた音楽は、やはりどこか自分のルーツにあるように思います。
米軍基地関係者とその家族に向けた英語のラジオ放送。現在はAFN Tokyoに改称

中学2年でブラスバンド部に入ってトランペットを担当し、先輩にしごかれるうちに楽譜の読み書きができるようになって、高校1年の頃にはトランペットで曲を作っていました。“歌を作りたい”と思うようになったのは、大学で先輩がやっていたジャズのクラブに入った頃から。ちょうどビートルズが出てきて、“ああいう歌を作りたい”と思うようになって。日本だと、加山雄三さんのような歌。それで、アルバイトをしてエレキギターを買って、独学で練習してコードを覚えたんです。すると、スリーコードにメロディーが乗せられることに気づいた。「あ、歌作れるんだ!」と。それからはスリーコードを押さえては毎日のように歌を作りました。大学4年間で350曲くらい。歌詞は自分で作る以外に、同級生やその家族にまで頼んで書いてもらいました。その中の一人が、妻の阿木燿子です。

作曲家志望のはずがバンドデビュー
大学卒業後、義兄が立ち上げた音楽出版社に入社し、マネージャーなどをしながら、新人アーティストのトレーニングも担当しました。でも、彼らに課題として既成曲を与えると、歌い方が元の歌手のコピーになってしまう。それならオリジナル曲をあげればいいと思って、フォークやポップス、演歌などさまざまなジャンルの新人に曲を書くようになり、レコード化もされました。その頃から音楽の裏方、作曲家になりたいと思うようになって、仕事の合間にデモテープを吹き込んではレコード会社に持ち込んで、曲を売り込んだりしていました。

歌手デビューするつもりはなかったんです。プロのステージを間近で見ていたので、「自分はあそこには立てないな」と客観的に考えていた。ところが、勤めていた音楽出版社が倒産した後にいくつかのバンドを集めて自分で音楽出版社を作ったんですが、所属バンドを売り込むために開いたコンベンションに自分も出ることになって、オリジナル曲を歌ったら、レコード会社2社から自分のところにバンドデビューのオファーが来てしまった。こっちに来てどうすんのよ、と思ったけどひと晩考えて、バンドを結成することを決めました。それがダウン・タウン・ブギウギ・バンドです。

不良のイメージから“作曲家  宇崎竜童”へ
デビュー当初は鳴かず飛ばずで、ビアガーデンなどを回ってライブもやりました。当時一緒にステージに立ったバンド仲間には、Charや後に楽曲提供することになる内藤やす子さんもいましたね。そのうちに『スモーキン・ブギ』がヒットして、作曲の依頼も来るようになったんです。山口百恵さん本人の希望で楽曲提供するようになったり、内藤やす子さんに提供した『想い出ぼろぼろ』で日本レコード大賞作曲賞をもらったりもして、“作曲家 宇崎竜童”として認められるようになりました。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは暴走族のファンが多かったり喫煙の歌詞があったりで“不良バンド”なんて言われて公共施設での演奏を断られることがありましたが、宇崎の名前で申し込むとOKになったりして。実際には暴走族が来ていましたけどね(笑)。

超多忙でも面白かった、百恵さんへの楽曲提供
百恵さんには60曲以上書きました。当時は新曲を出すタイミングは4か月に1回、アルバムも年に1、2枚出していたので常にローテーションが組まれ、とにかく作り続けていた感じです。アルバムは12曲中6曲書いてくれなんて言われる。その間、バンドのツアーで80〜90日全国を回ったり、テレビ出演、取材対応、仕事の打ち合わせ、映画出演までしていた。曲を作る時間といったら寝る時間を削るしかない。あるいはツアーの移動中やホテルの中。78年だったと思いますが、百恵さん以外の曲も含めひと月で38曲くらい書いた月があった。月の日数より書いた曲数の方が多い(笑)。3時間しか寝ない日もありました。若かったからできたんですね。でもプレッシャーと思うより、面白がっていた。苦しさより楽しさのほうが大きかったですね。

特に面白かったなっていう曲のひとつは、『プレイバックPart2』。実は、パート2は急に制作が決まって「明日までに作ってください」と言われ、ひと晩で書いたんです。何か月もらってもできないときはできないのに、できるときは瞬間にできてしまう。これは面白いですね。ああこういう作り方もあるんだ、って。

ここ20年くらいは、みんながシンガーソングライターになって、演歌以外は職業作家へのオファーが少なくなりましたね。「歌謡曲」というものは一回滅びたのかなと思います。でも、僕は歌謡曲を求めている世代というのはあると思っているし、また歌謡曲を作りたいなと思います。

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