僕の音楽は、宮崎駿さんや北野武さんの映画に使われていることもあり、世界中で流れていますし、たくさんの国から作曲のオファーが来ます。仕事をするうえで、日本を背負っているという意識はありませんが、日本人であることの誇りは持っていますね。ただ、音楽家にとって重要なのは国籍ではなく、“どういう曲をどういうレベルで書けているか”ということ。ですから、日本の映画音楽を1本手がけるとしても、そこで書く音楽、たとえば弦の書き方は、それ自体は絶対にジョン・ウィリアムスには負けたくない、負けちゃいけないという志を持っています。クラシックの作曲家のスコアを見てもわかるとおり、弦の書き方ひとつとっても、精度を極めた緻密な書き方が世の中にたくさんあるわけです。自分はそれと比べ、どのくらいのレベルに達しているか。そういうことはすごく考えますね。そして、考え抜いていった先の個性という段階で、自分が日本で生まれ育ったという、この環境で育まれた良さがきっとあるだろうと考えます。ですから、自分が日本人であるとかアジア人であるというのは非常に深い部分で出てくるべきことであって、安易にアジアのエスニック楽器を使ってしまうとか、そういうようなレベルでの仕事のし方は良くないと思っています。
とはいえ、近年はアジアでの仕事も増え、以前よりも自分がアジア人であることを意識するようになりました。日本人は、長い間欧米を見習いながらやってきましたから、殊に音楽の面では、アジアは遠い存在になっているところがある。けれども、自分たちがアジア人であることは間違いないわけですから、そこでのアイデンティティのあり方というのは大いに考える必要があると思っています。




著作権法は国によって微妙な違いがありますよね。日本で上映されることを前提に制作した映画音楽が外国で使われた場合、どちらの国の著作権の考え方を適用するかなどでは、僕は外国とも結構闘ってきたつもりです。宮崎駿さんの映画以前には、邦画が海外で本格的に上映されることはほとんどありませんでしたから、そうした権利主張をしたのは、おそらく僕が最初だったのではないかと思います。そうした経験から言えば、もうちょっと世界で統一されたルールがあればいいな、とは思います。ただ、日本の法律の考え方を曲げてまで、中途半端に外国に媚びを売る必要はない。「日本はこうやって作家を保護している」というやり方があるなら、それをきちんと主張していくべきだと思いますね。
アジアの国々の「著作権の意識の低さ」もよく指摘されるところです。でも、ついこの前まで日本も同じようなものでしたから、偉そうなことは言えないと思いますね(笑)。著作権というのは、オリンピックを開催する頃から意識が高まってくるんです。オリンピックを成功させるためには、スポーツだけではなく、知的な部分も含めたコミュニケーションを世界的に図れる体制をつくらなければいけませんから。韓国が著作権について意識しだしたのはソウルオリンピックの頃だと思いますし、日本だって、新しい著作権法が施行されたのは東京オリンピックの後でしょう。来年は北京ですから、中国に関しては少しずつ良くなっていくのではないでしょうか。
北京などでは、僕のCDは数年前に発売されたばかり。ところが、去年コンサートを開いたところ、チケットは即日完売で、ものすごい人なんです。しかも、全員僕の曲を知っているんですよ。発売されていないものまでインターネットで聴いている。だったら、「聴くな」という統制をするのではなく、きちんと流通させたうえで著作権を保護した方がよほどいい。人々の「聴きたい」という気持ちに歯止めをかける理由はどこにもないですよね。


一般の方は、作曲家というのはルーティンワークからは一番縁遠い職業のひとつだと思っているでしょうが、僕などはむしろ、サラリーマンの方より規則正しい生活をしているかもしれません。サラリーマンの方とは6時間くらいずれていますが(笑)、それはもう判で押したような生活ですね。朝起きてシャワーを浴びて、食事をとる。13時くらいから曲づくりを開始して、夜中まで。帰ってきて、ちょっとお酒を飲んで寝る。こんな日常の中で、ルーティンワークのように延々と同じことを繰り返していると、やっぱり苦しくなって、逃げたくなるときはありますよ。それでも音楽を続けるのは、僕にとって音楽は、生きることそのものだから。今までずっと、僕は音楽を通して世の中を見て、音楽を通して生きるということを考えてきました。そして、これからもそうするでしょう。「音楽」というのは、イコール「生きること」なんです。僕にとってはね。
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