作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー JASRAC
筒美作品を収録したCDを抽選で3名様にプレゼント
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で3名様にCD「作曲家研究名作選~筒美京平」(コロムビア)をプレゼントします。
応募締切日:2002年7月31日
(プレゼントの応募は締め切りました。たくさんのご応募ありがとうございます。)
HISTORY/筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967~97 Vol.1
HISTORY/筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967~97 Vol.2
HISTORY/筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967~97 Vol.1
HISTORY/筒美京平 ULTIMATE COLLECTION 1967~97 Vol.2
(c) Sony MusicEntretainment(Japan)Inc.
筒美京平
profile
1940年、東京生まれ。小学校から大学まで青山学院。
卒業後1963年、日本グラモフォン・レコード株式会社(後のポリドール)に入社。
4年間洋楽ディレクターとして勤める。
66年、作家デビュー。作詞家橋本淳氏とのコンビ作家として活動と同時にすぎやまこういち氏に師事、編曲も始める。
翌年(67年)ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」が初のヒットとなる。同年、グラモフォン退社。
69年「ブルー・ライト・ヨコハマ」で日本レコード大賞作曲賞を受賞。
その後、2回のレコード大賞と計5回の同作曲賞を受賞。
97年、作家活動30周年を記念して約2650曲の作品のなかから163曲を厳選したコンピレーション・アルバム「HISTORY」をリリース。
ヒットチャートのベスト10入りした作品は202曲(うち1位は38曲)[2002年5月20日付現在、(株)オリコン調べ]

代表曲
「ブルー・ライト・ヨコハマ」
いしだあゆみ
「また逢う日まで」
尾崎紀世彦
「17才」
南沙織
「よろしく哀愁」
郷ひろみ
「ロマンス」
岩崎宏美
「木綿のハンカチーフ」
太田裕美
「魅せられて」
ジュディ・オング
「セクシャル・バイオレットNo.1」
桑名正博
「スニーカーぶるーす」
近藤真彦
「人魚」
NOKKO
「やめないで、PURE」
Kinki Kids
他多数
第二回 筒美京平
Kyohei Tsutsumi
Interview



幼稚園から始めたピアノ、それが僕の音楽の原点

 今回のインタビューは大野雄二さんからの紹介ということなんですが、仕事上でのつながりはあまりなかったような気がします。
ただ大学生の時は僕もジャズピアノを弾いてたから学生同士横のつながりみたいなのはありました。大野さんのほかにもジャズをやっていて作曲家になった方々には、鈴木邦彦さんやもう少しあとになると村井邦彦さんなどもいらっしゃいますね。

 僕がジャズを本格的に始めたのは青山学院大学の同好会に入ってからです。高等部時代、先輩に渋谷のジャズ喫茶に連れていってもらって好きになったんですよ。マイルスやアート・ブレイキーなどモダンジャズの一番いい時代で、ピアニストでもウィントン・ケリー、レッド・ガーランドがいました。僕はどちらかというと黒人のジャズよりも、デイブ・ブルーベックなどのクール・ジャズなんかの方が好きでしたね。当時はアルバイトでたまに新橋や銀座のグランドキャバレーでピアノを弾いてました。大野さんのように米軍のキャンプ回りをやれるのは、相当な実力のある人ですよ。

 ピアノを習い始めたのは霊南坂幼稚園の頃でした。当時この幼稚園には大中寅二さんの息子さんで童謡作家の大中恩さんが先生としていらっしゃいました。基本的にはクラシックピアノですけど、美空ひばりさんとか、歌謡曲も好きでしたね。小学校からずっと青山学院ですが、クリスチャンの学校だったので週に1回生徒礼拝の時に伴奏ピアノを弾いたり文化祭の時に「慕情」などの映画音楽をメドレーで弾いたりしていました。
 それから、「聴音」を音楽の先生に習ったりしていましたから芸大のピアノ科に入りたいと思ったこともあります。まあ、受けてもダメだったと思いますけど(笑)。中等部時代の同期には東京交響楽団で指揮者をやっている秋山和慶さんがいらっしゃいました。

 大学を出た時には、音楽に関係のある仕事を希望していたのでヤマハを受けたりしましたが、たまたま当時ポリドールに勤めていた先輩から「洋楽のディレクターを募集している」というお話を伺って、応募してみたら比較的早く内定をいただいたので入社しました。音楽関係以外の会社も受けていたので、ひょっとしたら音楽とは関係のない仕事をしていたかもしれませんね。


すぎやまこういちさんとの出会い プロの作曲家としてスタート

 当時はジャズのほかにもプレスリーやパット・ブーン、ダイナ・ショアなどのヒットポップスをラジオでよく聴いていました。
 昔はステレオも家具調で大きく、一度に4、5枚のレコードが入るオートチェンジャー式のものでレコードを聞いていました。ポリドールでのディレクター時代に日本でもビートルズがヒットしましたが、他社(東芝EMI)のアーティストだったしセールスが凄かったから悔しくて素直には聞けない部分もありましたね(笑)。音楽的な意味でのいわゆる「ビートルズ世代」というのは、僕らより若い松本隆さんなんかの世代なんじゃないですかね。

 作曲やアレンジを始めたのは、青山学院の先輩で作詞家の橋本淳さんから「やったらどう?」と誘われたことがきっかけです。当時の橋本さんはすぎやまこういちさんのマネージャー兼作詞家をやっていて、すぎやまさんはフジテレビの音楽番組のディレクターをやりながら曲を書いてグループ・サウンズを売り出そうとしていたんですよ。

 作曲の勉強ということで、仕事が終わってから小平のすぎやまさんの家に行って、朝の3~4時まで曲を作ったりしながら、井の頭公園近くにある橋本さんの家で仮眠して仕事に行くというムチャな生活でしたよ。
 当時のすぎやまさんは恐くてねー(笑)。もの凄く耳も良かったから人気歌手の方なんかも、すぎやまさんの前で歌う時はブルブルしてましたね。すぎやまさんとの仕事はスタジオでぶっつけ本番。シングルのB面を「ちょっと、やってみるか」って言われて、譜面を作ってすぐにスタジオで録音。緊張しましたが、机の上でやるよりも勉強になりましたよ。


1960~70年代の洋楽からの影響 「洋楽そのものでは歌謡曲として難しい」

 曲を依頼されるミーティングでディレクターから「次は、こんな感じで」という指示がありましたが、海外のいろんな音楽にも影響を受けましたね。
 当時は、ダイアナ・ロスがシュープリームスをやっていた頃のモータウンやバート・バカラック、カーペンターズのA&M、CTIやVERVEのムードミュージック風のジャズなど、いろんな音楽がリアルタイムで出ていましたから。あと、ボサノヴァもはやっていたから60~70年代に音楽をやっていた連中はみんな影響を受けたんじゃないかな。

 外国の曲を聴くうえでも、どうすれば日本で売れるかを模索していましたよ。例えば、初期の頃にはオックスなどグループ・サウンズの曲を書いていたんだけど、メロディは歌謡曲っぽい。その延長線上に「ブルー・ライト・ヨコハマ」なんかがある。あれも歌謡曲なんだけど、サウンド的にはバカラックっぽいでしょう。でも、バカラックそのものじゃ日本の歌謡曲としては難しくなってしまう。自分で作った曲で気にいってるのは、うーん、「また逢う日まで」、「さらば恋人」、「木綿のハンカチーフ」といったところですかね。当時はカーペンターズみたいに1つのジャンルとして成立しうる新しい音楽がリアルタイムで出てきた時代でしたからね。良い意味でのショックが大きくて、一ファンとして、一プロフェッショナルとしてとてもよく聴きました。

 ダンスミュージックと日本の歌謡曲の関係は深いんですよ。例えばソウル・ミュージックの中でもオージェイズなんかのフィリー(フィラデルフィア)・ソウルが好きでしたが、ソウルといってもポップな音楽だし日本の歌謡曲に近いと思いますよ。オーティス・レディングとかブルースよりの音はあまり好きじゃないですね。日本でブルース的な音楽をメイン・ストリームにするには難しいと思いますよ。小室哲哉君が一時期やっていたユーロビート。あれも、ダンスミュージックとしてのブームがあったわけでしょ。アーティストにしても、荻野目さんが出て来てヒットを連発しましたよね。