理系の大学院を修了して、就職も決まっていたんです。でも、いまいち会社で働いている自分を想像できなくて。組織の中にいるのがダメなんでしょうね、きっと。子供のときから集団生活に違和感を覚える方だったんです。そういう意味では、我慢して就職してもいつか破綻するだろうし、やりたいこと、やれることを最初からやった方がいいかなとは思っていましたね。それと、大学院の頃にポプコン九州大会のグランプリをとって、自分にいろいろ可能性があるのかなと勘違いしちゃったところもあります。それで、もちろん親には反対されましたけど、とりあえず就職はきっぱりやめて、群馬県の嬬恋村で行われるコンテストの本選会に出ることにしました。結局、本選会でもグランプリをとって、ほぼ自動的にバンドデビュー。音楽の世界に就職するという意識もなく、ただ勢いでしたね(笑)。
影響を受けたアーティストは様々です。もともと母親が映画音楽やジャズ、クラシックを聴いていたんで、小学校5年生くらいのときからコール・ポーターやポール・モーリアなどを聴いていました。それらの音楽の中にある非日常的な豊かさや余裕、遊びみたいなものがすごく面白くて。その後はFENやBBC、オランダのラジオネザーランドなどから流れてくるスティービー・ワンダーやロバータ・フラック、ベイ・シティ・ローラーズなどを聴き漁りましたね。本格的に作曲を始めたのは大学2〜3年くらいの頃。教育学部にピアノ棟があって夜中でもピアノが弾けるんで、いろいろな曲をコピーしているうちに、オリジナルをつくるようになりました。大学院での研究は、曲づくりにも意外に役立っているんですよ。実験というのは、「こうやったら最後はこうなるかもしれない」という仮説を立てて検証をする作業なんですが、その手法は音楽でも踏襲しているのかもしれない。例えば、これとこれを組み合わせたら、新しい面白いものができるんじゃないか、とか。
バンドを解散してからは、3〜4年ほど作家として楽曲をつくった後、1989年にソロデビュー。並行してソングライターとしても活動を続けていましたが、楽曲提供の仕事についてはあまりいい結果が出ていない時期でしたね。でも、90年代に入って、小室哲哉さんやビーイング系のアーティストなど、従来の歌謡曲の概念にとらわれずに自分の信じていることをやって、それにリスナーもついてくるという状況を目の当たりにして、「音楽をつくるときの制約」みたいなものが急速になくなっていくのを肌で感じていました。ターニングポイントは1996年頃でしょうか。その頃から機材などが揃い始めて、他のアーティストに提供する楽曲をつくるときに、自分も楽しませてもらうようなつくり方ができるようになったんです。加えて、自分の中での気持ちの変化もありました。作曲のときにあまりいろいろなことを気にし過ぎず、一部の人だけでも「ホントにいい曲だね」って言ってくれればいいって、そんな気持ちで仕事ができるようになったのがこの頃。また、小室さんとは少し違う形ですが、楽曲の中にダンスミュージックの要素を取り入れていった時期だったと思いますね。
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