都倉俊一
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Profile
1948年6月21日東京生まれ。
学習院大学在学中から作曲活動を始め、これまでに「日本レコード大賞作曲賞」「日本歌謡大賞」「東京音楽祭最優秀作曲賞」「日本セールス大賞作曲賞、編曲賞」「日本レコード大賞」など日本の音楽賞のほとんどを受賞。その他多くの映画音楽、テレビ音楽を手がける。
幅広い作曲活動の他に、国際的なセンスを活かした執筆・講演活動を展開する一方、83年からは拠点を米国ロサンゼルスに移し、“シュン・トクラ”の名前で作曲・プロデュース活動を開始。米国ブロードウェイで数々のミュージカル制作に参画。88年からはロンドンに居を構え、本格的なミュージカル制作に取り掛かる。94年にはロンドンで大ヒットした「An Inspecter Calls」を総合監修(後にトニー賞を受賞)したのをはじめ、日本人の作曲家では初めてのオリジナル・ミュージカル「OUT OF THE BLUE」開幕。制作総指揮を兼ねる。
現在は、東京、ロンドン、ニューヨークを拠点にしてミュージカルを中心に創作活動中。
JASRAC理事(04年6月現在)。

おもな提供楽曲
麻生よう子
「逃避行」
井上順
「昨日・今日・明日」
「涙」
狩人
「あずさ2号」
「コスモス街道」
桑江知子
「私のハートはストップモーション」
郷ひろみ
「ハリウッド・スキャンダル」
ピンク・レディー
「ペッパー警部」
「SOS」
他シングル曲
フィンガー5
「個人授業」
ペドロ&カプリシャス
「ジョニイへの伝言」
「五番街のマリーへ」
山口百恵
「としごろ」
「青い果実」
「禁じられた遊び」
「ひと夏の経験」
山本リンダ
「どうにもとまらない」
「じんじんさせて」
「狙いうち」
他多数

Present
Present
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で3名様にピンクレディーの最新シングル『テレビが来た日』の都倉先生サイン入りCDをプレゼントいたします。
応募締切日:2004年8月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。
 
少年期を過ごしたドイツでの音楽体験
  4歳の頃からバイオリンをはじめて、それが音楽との出会いかな。父の仕事の関係で、小学校と高校はドイツで過ごして、小学校はボンのアメリカンスクール、高校ではベルリンのギムナジウム(※)に通っていました。ドイツは音楽だけではなく、芸術の情操教育がとても発達してるから、その意味ではいい環境でしたね。僕の場合はクラシックで習ったのはバイオリンとピアノだけど、演奏家としての才能があったかどうかはわかりません。音楽といってもいろんなジャンルがあるわけだから。楽器はそのほかにドラム、ベース、ギターといろいろやったけど、僕より上手なのはいっぱいいましたね。ギムナジウムでは音楽の勉強もしたけど、作曲家になろうなんてとんでもない。ウチは家系的に芸術でメシを食うなんて信じられない人ばかり(笑)。とりあえず安全パイというか、音楽学校には行かないで大学は法学部に入学しました。
※ドイツの大学進学のための高等中学校 


新進気鋭の学生作曲家〜ヒットメーカーへ

そう言いながらも、大学2年の頃からプロとしてやっていたんですよね。最初はもちろんアルバイト。他の学生がデパートでお歳暮の配達をやるのと同じ感覚で、作曲をしていました。全くの独学ですよ。当時(60年代後半)は日本の歌謡界が草創期でね。歌謡曲しかなかったところにGS(グループサウンズ)が出てきて、それ以降作曲や編曲の要求も増えて、同じ頃カセットテープとか新しいメディアが出回り始めたんです。需要に対してソフトが足りない時代だった。それでわれわれ学生でもアレンジのアルバイトができたんです。1曲3000円くらいで、一晩で5〜6曲アレンジして翌日レコーディングしてね。GSの時代から音楽業界が変わってきたんですよ。それまではレコード会社専属作曲家の時代でしょ。筒美(京平)さんにしてもすぎやま(こういち)さんにしてもそうだけど、時代がフリーの作曲家を非常に求めていたんだよね。今より随分恵まれていましたよ。

   
最初のヒット曲は69年、中山千夏さんの『あなたの心に』。レコード会社の人に「ちょっと書いてみない」と言われて書いた曲が大ヒットしちゃったんです。それから井上順、ピーター、和田アキ子とかヒット曲に恵まれて学生としては優雅な生活ができましたよ(笑)。進路に悩むこともなく自然の流れで卒業して、作曲家になった感じかなあ。ただプロとしてやっていくには独学じゃだめだから、卒業してからアメリカに勉強に行ったり、後は必要に応じて、非常に実践的な訓練をいろいろしました。

僕は基本的にバラード、美しい曲を作るのが一番好きです。ただ世代がロックンロール(R&R)。4ビートじゃなくて8ビートの世代なんです。これはね、大きいんですよ。R&Rを子どもの頃から聴いていたかどうかっていうのはね。R&Rは音楽の大革命ですから。これが生まれた時から頭の片隅にやっぱりあったんですよ。それは少年期にドイツにいたのが大きいかな。そのときはプレスリーが大全盛。高校になるとビートルズ、ストーンズとかビーチ・ボーイズとか・・・。とにかくRock Ageですから。日本では本当の意味でのRock Ageはなかったという気がしますね。

ペドロ&カプリシャス
ペドロ&カプリシャス
「ベスト・セレクション」
(WPC68416)
[発売元]ワーナーミュージック・ジャパン
70年代の初めでは、ペドロ&カプリシャスの『五番街のマリーへ』『ジョニィへの伝言』などのメロディアスな曲を作る一方で、山本リンダ、フィンガー5などに書いたビート系の曲はまさにR&Rを作りたい欲求不満から出た作品だね。自分で書いて歌うのは限界があるから、僕は自分のプロデュース感覚で作っていました。
でも出来上がっている歌い手に曲を提供したのは非常に少ないですよ。制約がありすぎてあんまり好きじゃない。まったくの新人を預かって育てていくというのがプロデュースとしてはおもしろい。ピンク・レディーのようにね。


真剣勝負の中から生まれたチームワーク

ピンク・レディーは阿久悠さんとの「いたずらっこシリーズ」だね。いろんなのやってやろうというプロデューシングですよ。あれほど世間が次の作品を待ち焦がれている状態っていうのは作家冥利につきますね(笑)。あれはもう、1回くらいは打ち合わせもするけど、阿久さんは音楽的なことをどうこう言う人じゃないから(笑)、現場で僕を信じてもらうしかない。テーマだけ決めて、まず僕が全部音を作っちゃうんです。とにかく時間がない。1〜2日くらいスタジオに入ってオーケストラを録音しなければならないので、スコアはビシッと仕上げておかないといけない。最後にピアノでメロディを弾いて、阿久さんがそれに歌詞をはめていく。あの人ははめこみ名人だから(笑)。普通は危なっかしくてそういうことはできないけど、阿久さんの場合は彼を全面的に信頼していましたからね。だから非常に効率のいい仕事をしていましたよ、あの頃は。とにかく3ヵ月サイクルでシングルを出していくわけだから。プロデューサーの飯田久彦(現・テイチクエンタテインメント代表取締役社長)さんが間に立っていろいろと調整していましたね。

ピンクレディー
ピンクレディー
「ベスト・ヒット・アルバム」
(VICL61156〜7)
[発売日]2003.6.4
[発売元]ビクターエンタテインメント(株)

当時はレコーディングのアレンジの他に、歌番組のときは必ずビッグバンドが入っていたから、彼らの編成に合わせてテレビ用のアレンジもやらなきゃいけない。『カルメン77』のイントロの早いフレーズに、トランペットが「こんなの吹けません」とテレビ局で言い出して、「スタジオではやったんだからできないわけない。いいからやりなさい」と言って揉めたこともあった。テレビ用の音作りは本当にたいへんです。レコーディングと同じにはできっこないじゃない?だから『UFO』の「トゥルルルルル・・」っていう音にしても、当時シンセサイザーは珍しくてレコーディングでああいう音を使うこと自体珍しかった。だからテレビでは ブラスだけで『UFO』をやるのはつらかったですね。でもそれをやっていたわけだし、彼女たちもそれに合わせていた。ある意味音楽の現場でみんなで真剣勝負をやっていたんです。
今は一般のユーザーに伝わるときも、すべて加工食品なんですよ。テレビでの演奏は珍しいでしょう。今、歌番組もあまりないけれど、ポップスの人たちはほとんどカラオケですよね。今はどうしても甘くなっちゃうよね。

ピンク・レディーの解散がひとつの区切りになって、それまで司会や審査員とかでテレビに出ていたことなど、そういうことにも一回、線を引くというか、ソングライターとしてもやることはやったという気持ちがあった。それでSONYで“トクラレーベル”というのを作りました。しかし、さらに新しいジャンルに挑戦したくてアメリカへ行っちゃったわけですよ。83年からかな。


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