作家で聴く音楽JASRAC会員作家インタビューvol.11 織田哲郎
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ロンドンでの音楽体験ロックスターはミュージシャンとしての実力だけでなくアイドル性も兼ね備えていた
Profile
1958年3月11日生まれ、東京都出身。中学時代をロンドンで過ごし15歳で帰国。
高校時代にバンドを組みエレキギターを弾きはじめ、同時にオリジナル曲の創作をはじめる。
1979年にプロデュース・ユニット“WHY”を結成、アルバム「WHY」でデビュー、並行して作家活動を開始。1983年、アルバム「VOICES」でソロデビューし、その後もコンスタントにシングル、アルバムをリリース。1986年、“TUBE”に提供した「シーズン・イン・ザ・サン」が大ヒット。1990年、B.B.クイーンズ「おどるポンポコリン」で日本レコード大賞を受賞。1992年、自身のシングル「いつまでも変わらぬ愛を」がミリオンセラーに。1993年、オリコンチャート・ベストセラー作家部門において、12,404,990枚という史上最高のセールスで一位を獲得。1995年、相川七瀬をプロデュースし、1stアルバム「Red」が260万枚、2ndアルバム「paradox」は170万枚を超えるセールスを記録。1998年、自ら立ち上げたレーベル“ZOOTREC”からソロシングル「青空」、2000年には「キズナ」をリリース。最新作はシングル「祈り」。
オフィシャル・ウェブサイト
>http://www.t-oda.gr.jp/

おもな提供楽曲
相川七瀬 「夢見る少女じゃいられない」
「バイバイ。」「BREAK OUT」
「恋心」etc
Wink 「咲き誇れ愛しさよ」
大黒摩季 「チョット」
KinKi Kids 「ボクの背中には羽根がある」
ZARD 「負けないで」「揺れる想い」
「マイフレンド」
「この愛に泳ぎ疲れても」etc
酒井法子 「碧いうさぎ」
J-FRIENDS 「明日が聴こえる」
TUBE 「シーズン・イン・ザ・サン」
「ビーチタイム」
「サマードリーム」etc
T-BOLAN 「さよならから始めよう」
「すれ違いの純情」etc
DEEN 「このまま君だけを奪い去りたい」
「瞳そらさないで」etc
中山美穂&WANDS 「世界中の誰よりきっと」
B.B.クイーンズ 「おどるポンポコリン」
「ギンギラパラダイス」etc
FIELD OF VIEW 「突然」「君がいたから」
WANDS 「世界が終わるまでは・・・」
「愛を語るより口づけをかわそう」
  他多数

Present
こちらで実施しているアンケートにお答えいただいた方の中から、抽選で3名様に織田さんのサイン入りポスターをプレゼントいたします。
応募締切日:
2004年1月31日
応募は締め切りました。たくさんの応募ありがとうございました。





CD「真夜中の虹」
CD「真夜中の虹」
2003.5.21<ZOOTREC>
ZOOT-0001


CD「祈り」
CD「祈り」
2003.10.15<ZOOTREC>
ZOOT-0002


子供の頃からラジオの深夜放送やFENでポップスを聴きながら、家にあったウクレレを弾いてみたり、音楽に触れる機会は多かったですね。俺のライブでも昔好きだった洋楽のカバーを演奏することがありますが、現在のポップスの基本形は1970年代でほぼ完成したと思います。時間が経っても古びないメロディだし、今の音楽と比較して新鮮さや感動量のレベルが全然違いますよね。

自分の血肉になった経験としては、中学時代の2年間をロンドンで過ごしたことが大きいかな。現地のイギリス人と同じ学校に通っていたから、グラムロックやプログレのブームを肌で感じることができました。当時、マーク・ボランやデヴィッド・ボウイは、イギリスの少年少女にとって部屋にポスターを飾るような「アイドル」だったんです。ロックスターは、ミュージシャンとしての実力だけでなく、セックス・シンボル的なアイドル性を兼ね備えていることが自然なことだと思ってましたね。

一方、当時の日本では歌番組でニコニコしながら歌うアイドルとロックをやる連中が完全に別個なものとして切り離されていました。テレビに出て芸能界に近づこうとするのは“ニセモノ”で、キャーキャー騒がれるのを拒否する姿勢こそが“本物”だっていう価値観(笑)。
日本に帰ってきた時は、イギリスでの音楽の捉え方と全く違うことにかなり戸惑いましたね。俺もバンドを始めた頃、デヴィッド・ボウイみたいになりたくて化粧を試したことがあります。でも、残念ながら全く似合わない・・・。客観性は持っているタイプの人間なので、すぐにビジュアル系で勝負する夢はあきらめました(笑)。

プロとしてのデビュー〜楽曲提供の仕事はゲームみたいに楽しめる要素もある
俺は、昔からクラスの人気者になるよりも、職人的にコツコツとモノ作りをするのが好きだったんだと思います。中学生の頃は絵描きになりたかったから、安定や成功とは無縁の道を進む覚悟を決めていたし。高校時代にバンドを組んだ時もボーカルには興味がなくて、ギターを弾いて曲作りに専念したいと考えていました。歌うようになったのは、東京で色んなバンドを見た時に歌が上手い奴が意外に少ないことに気づいてからですね。北島健二(現FENCE OF DEFENSE,PEARL)に出会って、俺よりも凄いギタリストが近くにいたことも大きかったと思います。
プロとしてのデビューは、北島健二に紹介されたその後ビーイングを立ち上げる事になる長戸大幸さんとの出会いがきっかけ。1979年に“WHY”というバンドの一員でレコードを出しつつ、他アーティストへの楽曲提供の仕事も始めました。

俺にとって、人に曲を提供するのは単純に楽しめる仕事なんですよ。
頼まれる以上は「売れる曲を書く」というのが前提だけど、リスナーの年齢層などターゲットを想定しながら作っていく過程は、ゲームみたいな要素もありますから。単にヒットするだけじゃなく、歌手やアーティストの存在を大きくする作品を書くことが理想ですよね。そうなれば、俺だけじゃなく制作スタッフも含めてみんなハッピーになれますし(笑)。

今までに、男女・年齢を問わずいろんな人に曲を書いてるから、結果的に幅広くいろんな作品を作れたと思います。自分のソロ名義の曲も含めると、今までにリリースされているものは600作品位かな。一般の感覚では600って聞くと「スゴイ!」って思うかもしれないけど、職業作曲家だと2000作品以上書いている人もいるから、決して多作ではないですね。でも、その割にはヒット曲は多いので“日本一打率の良い作曲家”かもしれないって思いますが(笑)。

曲提供だけの場合は、プロデュースと違ってトータルに関われないので、メロディには満足してても歌詞やサウンドの仕上がりに納得がいかない時もあります。予想以上にうまくいったのは、「碧いうさぎ」(酒井法子)。歌詞・アレンジ・本人の歌、トータルに素晴らしい仕上がりになりました。
今後は、演歌を書いてみたい気持ちもあります。織田哲郎=ポップスのイメージが強いから、依頼されることがありませんでしたが、やっぱり作曲家としては歌が上手い人に書きたいんですよね。

プロデューサーの役割はアーティストのイメージを一つの像として捉えられるような作品を仕上げること
プロデュースの仕事は、曲提供からビジュアル面の演出までフル・プロデュースすることもあれば、本人達が詞や曲を書くバンドの場合はサウンド・プロデュースのみといった風にいろんなケースがあります。関わり方によって、自分にとっての作業量や責任が全然違います。

相川七瀬をプロデュースした時は、コンセプト作りから詞や曲を誰に発注すれば良いのかまで、トータルに関わりました。結果的に、詞も曲も俺が書いたけど、プロデューサーとしての視点では織田哲郎という作曲家は一つの「持ち駒」にしか過ぎない。他の作家に依頼した方がベターという選択肢を常に持つようにしています。相川の場合は、本人にセルフ・プロデュースの感覚があったし、ミーハーな部分とマニアックさのバランスが絶妙だったんじゃないでしょうか。それまで、他人に詞を書くことはほとんどありませんでしたが「女にこんなことを言われたら、男としてはイヤだろうな」って想像しながら作詞をするのも楽しかったですね(笑)。

プロデューサーとしては、リスナーがCDを聴いた時にアーティストを一つの像として捉えられるような作品に仕上げることが勝負になってきます。
アーティストの魅力を引き出すことは、虫眼鏡で丹念に光を集めて、1点に絞込みながら火をつけるようなもの。商品として提供する以上はありのままの姿を全部さらけ出す訳にはいかないわけで、洋服や髪型、そしてテレビ・ラジオへの露出の仕方も重要です。
その時にプロデューサーや制作スタッフの意見がバラバラで、焦点がボケていると絶対うまくいかない。当たり前だけど、レコード会社やプロダクションなど制作スタッフ同士の結束や意思の疎通がとても大事だと思います。


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