こころ音(ね)うたアクト

『末文 あの町で〜秋』
作曲者:岩代 太郎

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(語り手:役所 広司 ギター独奏:村治 佳織 作:重松 清)

 夏の夜にはホタルが舞っていた川に、今年もまた―ふるさとの山並みが紅葉に彩られた頃、しぶきがいくつも立ちのぼった。
 鮭が川をのぼっているのだ。
 川べりの道を歩いていた若い父親は、へえ、と顔をほころばせて、足を止めた。「帰ってきたんだなあ、今年もやっぱり」
 つぶやくと、手をつないでいた幼い娘が、きょとんとして見上げた。
 「パパ、いま誰にしゃべったの?」
 父親は苦笑いして、手短に説明した。
 鮭は川で生まれ、海で育って、そして生まれ故郷の川に戻ってくる。いま、しぶきをあげて川をさかのぼっている鮭は、数年前にこの川で生まれ、海でオトナになって、また長い長い旅をして、ふるさとに帰り着いたのだ。
 「じゃあ」と娘は言った。「なんにも知らないんだね、春のこと」
 父親は小さくうなずいて答えた。
 「そう、なんにも知らないんだ」
 「びっくりしてるかなあ」
 「そうだな……びっくりしてるだろうなあ」
 河口に築かれたコンクリートの防波堤が、崩れ落ちている。川底には、瓦礫が折り重なるように沈んでいる。川の両岸に広がっていた町並みは消えうせて、いまは瓦礫交じりの荒れ野になってしまった。
 今年の春、この町は深い悲しみに包まれた。大きな地震が起きて、大きな津波が襲いかかってきて、町並みと多くの人たちの命を奪い去ってしまったのだ。
 「ねえ、パパ」
 娘がぽつりと言った。
 「鮭はびっくりして、そのあと、泣いちゃうのかなあ……」
 父親は無言で、娘とつないだ手に少し力を込めた。

 ふるさとの川に帰ってきた鮭は、なにも食べず、川底の石にぶつかって全身傷だらけになりながら、ただ一心に上流を目指す。
 「上流まで着いたら、どうするの?また海に行くの?」
 「いや……もう、海には戻らない」
 「ずーっと川にいるの?」
 父親は首を横に振った。ためらいながら、無理に微笑みを浮かべて、「鮭の一生はそこで終わるんだ」と言った。
 黙ってうなずくと、娘は顔をゆがめ、いまにも泣きだしそうな表情になった。
 「でもな」
 父親は言った。
 「鮭は、一生を終える前に、オスとメスが結婚するんだ。卵を産むために、鮭は生まれ故郷の川に帰ってくるんだよ。だから、春には、たくさんの子どもが生まれるんだ」
 「そうなの?」
 娘の顔は、たちまち明るくなった。

 やがて、この町にも冬が訪れる。雪景色の中、川の上流では、命のバトンを渡し終えた鮭が安らかな眠りについているだろう。
 そして春―卵からかえった鮭の稚魚は、ほんの数センチの小さな体で川をくだり、海に向かって長い旅を始めるだろう。
 若い父親と幼い娘は、また手をつないで、歩きはじめる。顔を見合わせて、どちらからともなく、ふふっと笑った。
 父親はつないだ手を離し、その手で娘の頭を撫でた。ゆっくりと、優しく。
 娘は「くすぐったーい」と照れくさそうに言って父親の手をはずし、あらためて川面を覗き込んだ。
 「帰ってきてくれて、ありがとう!」
 まるでその声に答えるかのように、一尾の鮭が体を激しくくねらせて、しぶきを上げながら、川をさかのぼっていった。

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